「これ見せたら、怒るかも」 イチローさんのバット職人
今春、日米通算28年におよぶ現役生活に別れを告げた大リーグ・マリナーズのイチローさん(45)。先月30日には同球団のインストラクター就任が発表された。イチローさんのバットを長年手がけ、「名人」と呼ばれた久保田五十一(いそかず)さん(76)が、天才打者との日々を引退後初めて振り返った。
「このバットを見せると、イチローさんが怒るかもしれません」。久保田さんはそう言うと、居間の押し入れに潜り込んだ。両腕に抱えたのは長い棒状のものを包んでいるであろう、白い袋。中から、1本の黒い棒が現れた。イチローさんが現役時代に使っていたバットは名刀のように保管されていた。
バットにはイチローさんのサインと2003年2月21日の日付。そして、グリップの上部が裂けていた。
「アリゾナキャンプを見学したとき、イチローさんが打撃練習でバットを折ったんです。イチローさんは、『久保田さん、見てました?』と。私は、記念にもらっていいですか?と聞いたんです。イチローさんがバットを折るのは本当に珍しかったので」
久保田さんは16歳でスポーツメーカー、ミズノの養老工場(現ミズノテクニクス)に入社すると、18歳から71歳までバットを作り続けた。03年には「現代の名工」に選ばれるほどの卓越した技術を誇り、落合博満さん、松井秀喜さんといった日本を代表する打者はもちろん、大リーグの通算安打記録4256本を保持するピート・ローズさんのバットも手がけていた。
イチローさんと初めて会ったのは、1993年、プロ入り2年目のオフだったと記憶している。まだ登録名を変更する前だ。先輩の小川博文さんと一緒に、「鈴木一朗さん」は、岐阜県養老町にある久保田さんの職場へやってきた。
「小川さんはね、私の袖をひいて、小さい声で言ったんです。『彼は、きっと出てきます』と」
イチローさんは当時、巨人に在籍していた篠塚和典さんと同じ形のバットを使っていた。聞けば、「先端がちょっと重いので、軽くすることはできますか」との希望だった。久保田さんは、もっと軽い材料を使うか、先端を削るか、バットのマーク付近を太くするか、の三つを提案。イチローさんは先端を削る、を選んだ。
「先端からの10センチを、0.5ミリの深さで削ったんです。これで10グラムほど重量を変えることができる」
イチローさんは言った。「見た目では全然わかりませんね」。そして、できたばかりのバットを振った。「これで大丈夫です。こういうフィーリングがほしかった」
多くの選手はシーズン後、バットについて様々な意見を久保田さんへ寄せる。例えば松井さんは毎年、全日程が終わると10日もたたず、工場までやってきた。「松井さんは『手のフィーリングが残っているうちに行きたい』とおっしゃっていました。でも、イチローさんは違いました」
工場を訪れたのは、93年の一度だけ。その後、バットに関する要望が来たのも、一度だけだった。
「シアトルに行かれたときです。『バットの重量をちょっと軽くしたい』とおっしゃった。ずっと910グラム前後を使っておられたのですが、『900グラムを超えないように、軽くしたい』と。後日、重量変えてどうですか、と聞いたら、『これでいいです』と」
全幅の信頼はときに、重圧でもあった。何より、材料が年々減っていく。バットになる木は、メープル、ホワイトアッシュなどがあるが、イチローさんは北海道産のアオダモを好んだ。
「アオダモの入荷数を、毎年報告していました。今年は8千です、今年は1万です、と。イチローさんが『いい』とおっしゃる木のゾーンは、原木段階で1600グラムほど。それがないんです。全体の1、2%くらいでした」
限りある資源。年間80本のバットを丹精込めて削りだした。イチローさんが活躍の場を米国に移してからは、年に1度か2度、大阪で会う機会があった。久保田さんは尋ねた。「今年はどうでしたか」。イチローさんは答えた。「大丈夫でした」。71歳でバット作りから引退するまで、その短いやりとりが励みだった。
今、久保田さんは「耳かき」をつくっている。古民家解体の時に出たススダケを知人から譲ってもらい、一本一本、丁寧に削っては、友人らに配る。
「ずっと使っていたやつが、折れてしまって。市販のは合わなかったので」
小学生のころ、竹とんぼを作るのが好きだった。人よりも、かっこよくて、きれいで、遠くに飛ぶ竹とんぼを作りたい。そして、職人の道に入った。
「大昔は、全部道具を自分で作ってたんです。これは、人間の本能だと思うんです。みんなの遺伝子の中にも、組み込まれているのと違うんですか」
現役を退いても、指導者としてイチローさんの野球道は続く。久保田さんの「ものづくり」人生も続く。(山下弘展)