Presented by サッポロビール株式会社

CRAFTWORKERS #1

為末大さんの見る五輪、箱根…価値ある「レガシー」を次世代にどう引き継ぐか

「レガシー」という言葉が近年、メディアを賑わすようになりました。「後世に遺る財産」が生まれる背景には、無数のプロフェッショナルたちの仕事があります。同時に、2020年を迎えた今、レガシーのアップデートも求められます。

変革を望まれる一方で、内側からは動けない。そんなとき、必要なのは外側からの刺激です。シドニー五輪から3大会連続五輪出場を果たした元陸上選手・為末大さんは「古巣」にも、時に議論を呼ぶような提言を続けています。

陸上競技のプロフェッショナルであり、スポーツ界の外側にいる「アウトサイダー」でもある為末さんと一緒に、遺すべきレガシーについて考えます。

制作:朝日新聞デジタルスタジオ
撮影:栃久保誠

「正論」自分でも「止めとけば…」

──近年、為末さんはオリンピックや箱根駅伝といった日本のスポーツ文化の在り方に、さまざまな提言をされています。プロフェッショナルとして実績のある為末さんの「正論」は反響を呼び、Twitterでは他のユーザーとの問答もよく見かけます。なぜ、発信するのですか。

わかりやすく言うと、クセなんですよ。自分でも「止めとけばいいのにな」って思いながら(苦笑)。興味を持って調べていって、知ったらやっぱり伝えたい。そういう性(さが)みたいなものがまずあります。その上で、やっぱり応援したいという想いもあって。特に陸上競技、スポーツ界は、人生の長い時間を捧げた場所ですから。

――プロフェッショナルによって生まれた「レガシー」が大きいほど、変革するために必要なエネルギーも大きくなります。為末さんはTwitterで「社会変革のプロセス」について紹介していました。ある事象について、それを外側で問題提起する「アウトサイダー」と、内側で問題解決をする「インサイダー」の役割分担により社会変革が達成されるということですが、為末さん自身はアウトサイダーに該当しますよね。

アウトサイダーが問題を周知させて、情報を知った仲間が集まる。どこが問題の要点で、誰がそれを変えられるかが議論によって絞り込まれる。インサイダーが働きかけて問題の中心を変える。この社会変革のプロセスにおいて、僕はアウトサイダーですね。アウトサイダーであろうとしているわけではないんだけれども、結果的にアウトサイダーになってしまっている。引退後はビジネスを中心にいろんな世界をうろうろしているから、インサイダーになれない、と言えるかもしれません。憧れはあるんですけどね。

でも、社会には「内側からはもはや言い出せない」ことってある気がしています。全員が一枚岩なんて組織はなくて、インサイダーの中にも「本当はこうしたらいい」と思っている人たちがいる。でもその人たちはインサイダーであるがゆえに「正論」が言えない。その代弁をして、応援しているつもりもあります。インサイダーの変革者が言えないことを言うのは、アウトサイダーの存在意義なので。

ちょっと高めの球を投げるくらいがちょうどいい。そうするとインサイダーが「あれはやりすぎだから、これくらいでどうですか」と内側で言いやすくなる。だから、知り得たことをすべて明らかにすることはしません。それに、ジャーナリストのトレーニングを受けたわけでもない人間がそのように振る舞うのは、誰でも発信できる時代だからこそ、もっとも危険なことだとも思います。外側からのあまりに過激な行動は、変革の機運を潰してしまいかねない。これでも、加減をしているんですよ。時々「さじ加減が難しいな」と反省することもありますが。

為末さんの「インサイダー/アウトサイダー」論

──為末さんはスポーツ界におけるプロフェッショナルとしての実績を持ちながら、今はアウトサイダーの立場で外側から問題を提起しています。為末さんのような存在からの刺激によって、インサイダーが内側でその問題を解決し、レガシーをよりよい形で次世代に引き継ぐことができるのでしょうか。

そう思います。引き継ぐという意味ではさらに、変えるべきところと、変えるべきでないところを、ちゃんと分けて考えないといけないのではないでしょうか。

世の中には「あれは新しい」と言われるものがある一方、「これはもう終わった」と言われるものがありますよね。そういえば、新聞ってまさに後者じゃないですか。みんな「新聞はダメ」と言うけど、情報には飢えているように見えます。だとすると、「情報を届ける産業」と「届け方」があって、届け方は時代によって変わっていくけれども、人間の根源的な欲求は変わらない。終わったのは届け方なのであって、産業自体ではないというのが僕の立場です。

そのレガシーの本質的価値は何で、それを遺すにはどのような在り方が適切なのか。オリンピックや箱根駅伝の「懸命な人を応援して感動する」という構図は、人類の歴史の最初の頃からきっとあまり変わっていなくて、ゆえにオリンピックや箱根駅伝の価値は変わりません。一方で、その在り方は、時代に合わせて変わっていくべきだと思います。

違う役割の人間が同じ志を持つことができれば、社会は変わります。そのためには、それぞれの役割や立場の違い、相手の役割の特性を理解しながら、同じ未来を見ることが大事です。問題は「人」ではありません。問題は「構造」であり、「停滞感」です。変えることへの諦めこそ、粉砕しなければなりません。

2020年大会「モノ」のレガシーからの脱却

──1964年の東京五輪では東海道新幹線や首都高速自動車道、冷凍食品やカラーテレビなど、「モノ」がレガシーとして遺りました。「モノ」の時代は、プロフェッショナルの存在感があり、遺すべきレガシーも見えやすかったと言えます。一方、2020年の現代は、「モノ」を作ればいいという時代ではない。われわれは何を次世代に遺せるでしょうか。

オリンピックについては思うところも多くて。今回のように開催に賛否両論あるというのは、むしろ健全ですよね。僕個人の感想としては、そもそもオリンピックをここまで神格化している国は世界でも珍しい。オリンピック選手へのリスペクトも強いと感じます。他の国はアメフトだったりサッカーだったりの方が人気だから、日本はある意味で一番「オリンピックな国」ですよ。かつて日本という国を盛り上げていくにあたって、そのプロセスにオリンピックという、国民に一体感を持たせやすいイベントがハマったのでしょう。

でも今や、オリンピックが嫌な人もいるし、好きな人もいて、それぞれが意見を表明できるようになった。オリンピック期間中、テレビを観たくなければYouTubeやNetflixを観たっていい。現代の日本に、オリンピックは必要か。この議論はとても大事なことだと思います。

一方で、意思決定はすでになされています。オリンピックは日本で開催され、世界からたくさんの人が訪れる。そのこと自体は変わらない以上、「どうやったらおもしろがれるか」と考えてみてもいいのではないでしょうか。行きつけの飲み屋で、どこにあるか知らない国の人と隣の席になるかもしれない。そんな時間をどう楽しむか。これからの「レガシー」とは、このように柔軟な姿勢そのものになるかもしれません。もちろん、無批判に受け入れるのは危険だし、この国の意思決定の「インサイダー」の方々には、今回のオリンピックにより日本に何を遺すのかを、しっかり考えてほしいですけどね。

<<後編はこちら>>

為末大(ためすえ・だい) Deportare Partners代表。1978年広島県広島市生まれ。男子400mH日本記録保持者(2020年1月現在)。2001年世界陸上エドモントン大会・2005年世界陸上ヘルシンキ大会で銅メダルを獲得、シドニー・アテネ・北京のオリンピック日本代表。2018年7月に株式会社Deportare Partnersを設立、競技用義足体験施設を併設した新豊洲Brilliaランニングスタジアムの運営や、スポーツベンチャーなど起業家のシェアオフィス事業に取り組む。近著に『生き抜くチカラ: ボクがキミに伝えたい50のことば』(日本図書センター)、『逃げる自由』(プレジデント社)など。

この記事をシェア

facebookにシェア
twitterにシェア
tLINEにシェア

SHARE

facebookにシェア
twitterにシェア
tLINEにシェア

オススメ記事
RECOMMENDED

↑TOPへ