恵比寿の街と歩むサッポロビール── 恵比寿新聞編集長が語る街の魅力PR
♪ラララ、ララララン、ラララ、ララララン~
「恵比寿」と聞いてこのCMメロディーが頭に流れる人もいることでしょう。都心のおしゃれ発信地・恵比寿の地名は、明治時代にサッポロビールの前身・日本麦酒醸造会社が「恵比壽ビール」というビールをつくり始めたことに由来します。街には昭和の終わりまで工場があり、ビール会社とともに街は発展し続けてきました。そんな恵比寿の歩みについて、地元で情報を発信し続けているWEBメディア「恵比寿新聞」編集長の髙橋ケンジさんにお話をうかがいました。
街の名になったヱビスビール(*1)
*1:地名の由来になった当初の商品名は「恵比壽ビール」
奈良県に生まれ育った髙橋さんと恵比寿との縁は、2002年に、後に妻となる恵比寿出身の女性と出会ったことに始まります。その当時の恵比寿には、八百屋や肉屋といった個人商店が軒を連ね、下町の雰囲気が残っていたそうです。
「恵比寿にはなんておもしろい人たちが住んでいるんだろう。なぜメディアは取り上げないんだろうと思った。それがきっかけで恵比寿新聞を立ち上げたのです」
恵比寿の街と向き合うこと17年。髙橋さんは、街を語る上でサッポロビールは欠かせない存在だと実感してきました。
サッポロビールの前身、「日本麦酒醸造会社」が現在の恵比寿の地にビール工場を構えたのは、1889年(明治22年)のことです。1901年(明治34年)には、大量のビールを遠方に運ぶため、専用の貨物駅「恵比寿停車場」が開設されました。醸造所周辺は人口が増加し、1906年(明治39年)に現在の恵比寿駅ができました。そして1966年(昭和41年)醸造所周辺の地名が「恵比寿」と名付けられたのです。
「恵比寿という地名になる前から『恵比寿通り』という町名があったそうです。この町名もビールや製造に必要な資材を、馬や牛が運んでいたことに由来します。周辺には牧場がたくさんあったそうです。坂道だったので、通称『ビール坂』と呼ばれていたそうですよ」
その坂道には今、ビールジョッキの形をした街路灯があります。
「地元商店街は、もともと『恵成商店会』と言いましたが、2016年に『恵比寿ビール坂商店会』に改名しました。平成に入り、移転したビール工場跡地が再開発され、レストランやデパートが入った複合施設『恵比寿ガーデンプレイス』が開業した当初は、複雑な思いを持つ商店街の人もいましたが、地元とサッポロビールが一緒にやっていこうよ、と雪解けしたのです。街路灯も商店会が設置を進めています」
昭和のサッポロ社内報。焼け野原からビール生産
髙橋さんの手元には、昭和30~40年代のサッポロビールの社内報『麦苑』や保険組合の冊子『こだま』が保管されています。そこから浮かび上がるのは、戦後復興に一丸となる社員の姿や、地域の人たちとの温かな交流でした。
「1958年(昭和33年)の『こだま』には、終戦時の恵比寿のことが書かれています。恵比寿は1945年(昭和20年)5月24日~25日に空襲に遭ったのですが、駅を降りたら焼け野原でビール工場の塀が丸見えだったという記述が印象的でした。戦後、社員はバラックの工場で淡々とビールを製造していたそうです」
社内報には、高度経済成長期の躍動感を感じさせるエピソードも収録されていました。
「こうして家を建てたとか、ローンでどのくらいお金を借りたとか……。家族構成から自宅の設計図まで、細かく報告しています。娘の誕生話といった社員のパーソナルな話も書いてあっておもしろい。これ1冊で一日ビールを飲んでいられます(笑)」
髙橋さんによると、昔から恵比寿に住む人たちは「恵比寿はサッポロビールの城下町」と言うそうです。
「渋谷川を渡ったところにはサッポロビールの大きな社宅があったそうです。たくさんの社員の子どもたちが地域の小学校に通っていたのです。僕は今45歳ですが、地元で少し年上の人に話を聞くと、先輩方の同級生の親はサッポロビールで働いていた、ということも少なくない。彼らは今も家族的なつながりがあるんですよね」
戦後の焼け野原から工場を中心に発展してきた恵比寿。そんな街にとって新たな分岐点となったのは、「恵比寿ガーデンプレイス」の開業ではないか、と髙橋さんは振り返ります。
「工場の街」から「食の街」へ。ビールで街おこし
1988年に恵比寿工場閉鎖、千葉工場は1988年に竣工。恵比寿工場は千葉県へ移転し、工場100年の歴史に幕を下ろします。サッポロビールは跡地を再開発し、1994年に複合施設「恵比寿ガーデンプレイス」を開業しました。
「恵比寿ガーデンプレイスの大きさは、多くの人の生活環境を大きく変えました。今や住みたい街ランキングの上位で、昼間のオフィスワーカーが多い。地価の高騰で、残念ながら個人商店は年々減り、付加価値のつけやすい飲食店が増えていきました」
「JR恵比寿駅の半径2キロ以内には1900店もの飲食店があります。ほかの地域に比べても異様に多い。近年は海外の観光客からも『食の街』として注目されています。小さくても個性的な飲食店が多いことが人気の理由だと思います」
「食の街」を発信するイベントの一つに、恵比寿新聞が主催する「恵比寿の料理人が考える!ヱビスビールに合う逸品グランプリ」(サッポロホールティングス株式会社協賛)があります。毎年秋に開催し、昨年は、恵比寿の名店51店舗が約40日間、ヱビスビール1杯とそれに合う料理一皿を1000円で提供。参加したお客様が上位3店舗を選ぶという企画です。髙橋さんによると、期間中は1店舗当たり平均月200人くらいが訪れるそうです。
「麦芽100%のヱビスビールに合う料理は多様にあります。おいしいビールを出す店は間違いなく食事もおいしい。参加者はお店の地図や紹介が載ったイベント冊子持って歩くから、行った先々で仲間ができるのもおもしろい。『どこを回られました?』と全然知らない者同士で情報交換ができる。そのうち参加者同士で結婚とかするんじゃないかな」
街と一緒に汗を流す。今も熱いサッポロの社員
地域の祭りやイベントを通して、何人ものサッポロビール社員と交流してきた髙橋さん。どの社員も「おもしろく、愛社精神が強い」と語ります。
「人と壁をつくらないのはサッポロさんの特長。フランクに接してくれます。社風なんじゃないでしょうか。それと、みんなお酒が飲めますね。お店の瓶ビール飲み尽くすくらい(笑)」
社員との忘れられない思い出の一つは、ビアフェスティバル「恵比寿麦酒祭り」(サッポログループ各社主催)での出来事だそうです。2014年の祭りで配布するため、恵比寿の街に関する小冊子の制作をサッポロビールから依頼された髙橋さん。でも、開催日3日前になって、会社の上層部から配布に「待った」の声がかかったそうです。
「冊子の内容はまともなんですが、個性的なビジュアルの表紙がまずかったみたいで(笑)。何万枚も刷った後だったので、僕も困ってしまったんです。そしたら、サッポロの広報の人たちが『髙橋さんがあんなに頑張って作ったのに止めるなんて……』と、冊子を社内の全部署に配っていった。恵比寿ガーデンプレイスタワーに入っている会社にも配ってくれたそうなんです。それを見た社長が、祭り当日、冊子を手に『みなさん、これを持って恵比寿の街を歩いてください』ってあいさつしてくれたんですよ。もう感動して膝から崩れ落ちました。正直、もっと早く社内で冊子のチェックをしてくれよ、とは思いましたけどね(笑)」
その翌年にスタートした「逸品グランプリ」も、サッポロビール社員の「次は何やる?」という髙橋さんへの一声が企画のきっかけとなりました。初年度は20店舗で開催しようとしたものの、直前までに集まったのは17店舗。なんとか目標を達成させようと、社員が一緒に店をまわり、頭を下げてくれたそうです。
「その社員さんは、すでに定年されているのですがもともと営業マンで武勇伝は数知れずという方でした。『髙橋。諦めてもいいけどな、心残りになるんだったら行くぞ!』と言ってくれて、最終的に20店舗一緒に集めてくれたのです」
いつの時代も、恵比寿では、祭りなどのイベントにサッポロビール社員の姿がありました。最近では、子育て支援イベント「渋谷papamamaマルシェ2019」(同実行委員会主催・渋谷区後援)がサッポロビール本社講堂・サッポロ広場で開かれたり、子どもやお年寄りの「孤食」をなくすための「恵比寿じもと食堂」にサッポロビールがお茶や豆乳を提供したり。「街の一部という感じです」と髙橋さんは語ります。
「この街で生まれたビールを観光資材にしたい」
恵比寿の街を愛し、恵比寿の街を生み出したサッポロビールを愛する髙橋さん。「これからもヱビスビールは魅力的な観光資材になる」と語ります。
「米国のニューヨークにはブルックリン ラガーがあり、デンマークのコペンハーゲンにはカールスバーグがある。恵比寿にはヱビスビール。恵比寿駅を降りた途端においしいビールがたくさんある街でありたい」
そして、地域とサッポロビールという企業のつながりにも期待を寄せます。
「この街で生まれたヱビスビールを通して、地域がなにか一緒にやろうという方向性があるといい。普段からみんなで一緒に成し遂げる一体感があれば、例えば、地震が起きた時でも一丸になって助け合えるんですよ」
「サッポロさんは古い考えにとらわれず、丸くならず、いろんなことにチャレンジしてホシ(欲し)い。明治時代に革新的なビールをつくった、当時のスーパーベンチャー企業ですから、これからも恵比寿の街と共に、どんどん新しいことに挑戦して欲しいですね」
(文=坂口さゆり 写真=中田健司)