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希望の黄色いハンカチ 映画監督・山田洋次さん

※本記事は2019年3月12日に朝日新聞デジタルで掲載されました。

明治以来150年もの間、この国は成長と拡大の先にある「幸福」を信じ、長い坂道を上り続けてきた。そして8年前、巨大津波と原発事故は、その物語のもろさを突きつけた。震災は、私たちに何を問いかけたのか。被災地に暮らす記者(35)が、「家族」を通じ幸せのあり方を描いてきた山田洋次さん(87)に聞いた。

《東日本大震災の津波に襲われ、「奇跡の一本松」が残った岩手県陸前高田市。約10メートルかさ上げされた大地に「黄色いハンカチ」がはためいている。姉と自宅を失い、山田さんの作品を心のよりどころにしてきた菅野啓佑さん(77)が震災の2カ月後に掲げた。菅野さんは7年半の仮設住宅暮らしを終え、昨年末、再建した自宅に移り住んだ。再びハンカチを翻らせ、仲間の帰りを待ち続けている。》

──菅野さんは「黄色いハンカチを掲げることが、おれにとっての希望なんだ」と話しています。

「本当に涙がでてくるよ。申し訳ないような、ありがたいようなね……。生きるか死ぬかというすさまじい目に遭った人が、黄色いハンカチを何度も掲げてくれるなんて。映画監督冥利(みょうり)につきると言いたいな」

──菅野さんとは手紙でやりとりを続け、「希望よ永遠に」と書いた板も贈っています。

「贈ったわけじゃない。『書いてくれ』って言われ切羽詰まって書いたようなものを大事にして下さっていると聞くと、ぼくは恥ずかしくて。穴に入りたいという気持ちですよ」

──恥ずかしいとは。

「ぼくが経験した苦労なんて、彼の苦労に比べたら本当に知れているんだよ。ぼくは引き揚げ者で、中学生のときに内地に難民のように移住して知らない土地で暮らし始めた。そのときの状況にほぼ近いんだろうけど、当時は日本中、そういう境遇の人がいっぱいいたからね」

《菅野さんが暮らしていた今泉地区は、600軒あった家々が根こそぎ流された。高台移転とかさ上げによる住まいの再建が始まった。総事業面積は東京ドーム64個分の約300ヘクタール。1600億円の国費が投じられる。だが宅地の7割には利用予定がなく、空き地になりかねない。》

──巨額の国費を投入したのに人が住まない。地元では半ば自嘲気味に「ピカピカの過疎の町」という表現も使われ始めています。

「あそこから消えてしまった人たちはたくさんいる。残った人も、今までより海抜が10メートルも高いところに暮らしていかなくてはならない。出来たてでピカピカして、しかも寂しくて。いったいいつになったら、家やお店が並ぶ『町』になるんだろうね」

──地元の人々が言う「復興」とは、「今日と同じ明日が来る」「震災前と同じ暮らしを取り戻す」という、ささやかで確かなものでした。

「阪神大震災のあった神戸の長田地区で、小さなお稲荷さんが焼けてしまった。復興の掛け声とともに、巨大な耐震のビルがズラズラ建つとき、地元のおばあさんが聞いたそうだ。『あのお稲荷さんは、いつどこに建てて下さるのでしょうか』と。つまり、市民にとって、復興するというのは、そういうことなんだね。近所の人たちがお稲荷さんの前で朝のあいさつを交わし、昔なじみの豆腐屋で朝の豆腐を買うといった、和やかで平和な暮らしのイメージは、市の計画にはないと思う」

《復興の基本方針で、政府は復興期間を10年と設定。前半の5年を集中復興期間、後半の5年を復興・創生期間とした。津波被災地の岩手・宮城では住宅再建が進む一方、原発被災地の福島では住民帰還がままならない現状がある。》

──原発事故をきっかけに、経済成長を支えてきた「科学技術」は万能ではないと、多くの人が考えるようになりました。

「原発が止まり、節電が続いた時期、高速道路は暗くなったし、街灯もネオンも消えた。けれども、そのことで特に不自由はなかった。日本中が少し我慢して節電すれば、原発を停止しても大丈夫じゃないか、って思った。どうして国をあげて、あの時そういう風に考えなかったのだろうか」

黄色いハンカチ=伊藤進之介撮影

──9基が再稼働し、節電という言葉も聞かれなくなりました。

「あたり前のことだけど、地震は自然現象で原発のメルトダウンは人工的災害。人間が犯した失敗です。あの大災害によって、核エネルギーがどんなに危険かってことをぼくたちは痛いほど知ったはずなのに、今は忘れかけようとしている。あるいは忘れさせられようとしているような気がするね」

《少子高齢化が進む中、地方では人口減少が深刻化している。特に地方を象徴する被災地は、復興基本法の理念の中で『21世紀半ばにおける日本のあるべき姿』と位置づけられた。》

──復興とは幸福と密接に結びついた理念ではないでしょうか。

「『日本のあるべき姿』というけど、一体どんな姿をイメージして高級官僚はその言葉を使うんだろうね。ぼくは日本人が『幸福』という言葉を身近に使い始めたのは1950~60年代以降だったと思う。電気洗濯機を初めて手にした時代にぼくは結婚したけど、60年代の日本は割にうまくいっていたような気がする。懸命に働いて豊かな生活を目指していた時代。『幸福』が餌のように目の前にぶら下がっていた、あの時代」

──高度成長期と重なります。

「それが『これでいいのか』という迷いが始まったのが、70年代じゃなかったのかと思う。大阪万博のあった70年に、ぼくは『家族』という映画を作った。主人公一家は長崎から北海道に移住する途中で千里山の万博会場までは行ったけど、時間切れで追い返されてしまった。科学技術の進歩バンザイのあの頃、すでに日本人は『幸福』イコール物質的ぜいたく、という考え方に不安を感じ始めてたのではないのかなあ。寅さんはあの時代に誕生したんです」

──震災後、「物質的な豊かさが大事」という価値観が見直された空気を感じたのですが。

「地域が破壊され、大都市に人口が集中する。AIの時代が来て、効率化が進む。こういう方向性が、人間にとって本当に幸せなのかね。隣近所が仲良く、しょうゆやみそを貸し借りして、古いなじみの豆腐屋や八百屋で買い物をする暮らしの型が消えることが。日本人が明治から大正・昭和にかけて築いてきたライフスタイルを、ブルドーザーで潰すように消してしまっていいのか、それで幸せになれるのか、ということを、国をあげて議論しなくてはいけなかったのではないかと思うわけ」

──国も地方創生に力を入れていますが。

「だったら新幹線の駅も飛行場も、これ以上つくるのをやめた方がいい。高速道路を作るお金を地方の暮らしや文化活動に回せばいいと思う。新しい『町』ができるには3代のつき合いが必要だ、ということを詩人の田村隆一さんから聞いたことがある。一つの町で子どもが大きくなって結婚し、孫が生まれる。50年、100年というスタンスのおつき合い。大震災の後、この国の政治はそういうビジョンを持っているのか、ということを問われたんじゃないかな」

──庶民のささやかな幸せを、政治は本気で考えていないと。

「陸前高田のぼくの友人が、仮設住宅での長い生活を終えてようやく移り住んだあの一軒家の周りがいつにぎやかになるのか。地方の過疎化を解消するために、命をかける政治家がいるのか、と問いかけたい。それができないのなら、この人じゃムリだと思ったら、政治家を交代させればいい。それが民主主義でしょう」

──「幸せ」って、どこにあるんでしょう。

「被災した人のことを考えると、ぼくはぼく自身の生き方を問われているような気がします。陸前高田のあの一軒家の隣や向かいに家が建って、主人がその家の娘や孫たちと縁側に座って、庭の黄色いハンカチを眺めてビールを飲む。そんな生活が彼らに戻るために、ぼくは日本人の一人としてなにができるのか、しているのか、ということです」(大船渡駐在・渡辺洋介)



やまだようじ 1931年生まれ。2008年から日本芸術院会員。12年に文化勲章を受章。「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」は77年の公開。主演は高倉健。

■取材を終えて

経済成長を追い求めて得た豊かさと引き換えに失ったものは、一体何だったろう。復興政策を考える時、岩手県沿岸部に妻と子ども2人の家族4人で3年間、暮らしてきた私は、この問いと向き合わざるを得なかった。人口3万6千人の大船渡市では地域社会のつながりが残る。親子で街を歩き、公園で遊んでいると、頻繁に声をかけられる。お土産のお裾分けや手料理を分けてもらうことも少なくない。こうした助け合いやつながりを、地元の言葉で「よいとり」と呼ぶ。「形にならないもの」に再び光があたり、生き方を見直そうと問いかけたのが大震災ではなかったのか。山田さんの思いに触れ、復興のあり方について再度、考えるべきだという思いを強くした。

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