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「天下」よりカネもうけ? 戦国大名の意外な野望

※本記事は2017年2月4日に朝日新聞デジタルで掲載されました。

ときは戦国、下克上の乱世。荒くれ武将たちは我先に天下取りを志して……と思いきや、とりあえず天下はおいておいて、我が道を行く戦国大名も意外に多かったようだ。では、何に目を向けていたのか。

アジアに視線

日本列島で群雄が割拠し、英傑がきら星のごとく輩出した戦国時代。信長しかり、秀吉、家康しかり。守護大名から戦国大名へと移り変わっていく有力武将らにとっても、天下を制することは究極のゴールだったはずだ。ところが、その熱意を海の向こうに注いだ者たちがいた。めざすは対外貿易が生む富である。

「天下統一に動いた大名は、むしろ少数派ではなかったか。アジア的な視野と価値観で活躍した者たちがいた事実は、あまり語られてこなかった」。名古屋学院大の鹿毛敏夫教授は、そんな彼らを「アジアン戦国大名」と名付けた。

代表格は中国地方に勢力を張った大内氏だろう。中央に食い込み、本拠地の山口には雅(みやび)な京文化が栄えた。原動力は室町政権期から培われた対朝鮮、対明交易だ。

大内氏は倭寇(わこう)鎮圧を足がかりに朝鮮と通交する一方、室町政権への強い影響力を駆使して遣明船を経営し、珍奇な舶来品を求めて勘合貿易に乗り出す。国際貿易港の博多を押さえ、商人や禅寺ともパイプを持った。足利幕府が所持し戦乱で失われたとみられる「日本国王之印」の木製模造品すら持っていた。

しかも自らを百済王の後裔(こうえい)とするほどの“国際派”。九州大の伊藤幸司准教授は「九州など列島周辺部で海外にルーツを持つと主張する勢力は、そう珍しくない。海外を意識するかしないか。西国と東国はそこが決定的に違った」と指摘する。

海外貿易に注力

一方、ノウハウに乏しい地方大名たちも、あの手この手で巨利を生む海外貿易に絡もうとした。肥後(熊本)南部の相良氏も遣明船派遣を試みているし、信仰に支えられたキリシタン大名らも海外貿易に無関心ではいられなかったようだ。

北部九州に覇を唱えた大友宗麟も遣明船や南蛮貿易に熱心で、カンボジアとも通交した。おひざ元の豊後府内(大分市)は中国人や西洋人らでにぎわい、発掘調査ではタイ、ベトナム、ミャンマーなど東南アジアの陶磁器も目立つ。当時、明は国を通しての交渉しか認めていなかったが、「認められれば正規の朝貢貿易をし、拒否されれば南方で密貿易、という倭寇的な性格さえあった。でも、本人たちにダークな密貿易をやっている意識はなかったでしょうね」と鹿毛さん。

「自分は実力者」宣伝

そんな大名たちが盛んに励んだのが外国向けのプロパガンダ。天下人とは言わないまでも、それに匹敵する実力者だと喧伝(けんでん)し、貿易を有利に進めようとしたのである。

「日本九州大邦主」と呼ばれた大友氏などある程度成功したようで、西洋の地図には「BVNGO」や「Bungo」の文字がすり込まれた。タイと接触した肥前の松浦氏は自領を「日本平戸国」と称したし、本土最南端を押さえる薩摩(鹿児島)の島津氏もカンボジア国王への書状で自分が九州全域を手中に収めていると力説した。巨利を得るのに多少のはったりなど問題ではなかったのだ。

だが、西国大名の活躍も、全国統一が進むにつれて終焉(しゅうえん)を迎える。伊藤さんは「統一政権の登場は自由貿易から管理貿易へ向かわせた。日本ばかりでなく、明清交代期の中国など東アジア全体で終息していくようです」という。

ちっぽけな島国の「天下統一」などには目もくれず、世界を相手に船出した戦国武将たち。まさに戦う国際派ビジネスマンのはしり、といえないか。(編集委員・中村俊介)

朝鮮交易、対馬が存在感

朝鮮王朝との対外交渉で忘れてならないのが対馬の宗氏。対馬は日朝両国を隔てる海上に浮かび、朝鮮との交易で潤う宗氏にとって国際交流の安定は生命線だった。

外交文書を偽造してまで蓄積した豊かなノウハウは、貿易を志す大名たちの垂涎(すいぜん)の的。豊臣秀吉の朝鮮出兵で途絶えた日朝外交の復活に大きな役割を果たした陰の立役者だ。いまも当時の外交を詳細に記した膨大な「宗家文書」が残る。

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