【人生の贈りもの】役者・樹木希林(2) 他人と比較しないこと覚えた
私の雑司谷小学校時代を知っている人たちは「あの子が女優? まさかね」と、さぞ驚いたことと思います。だって、多くの人は私の声も聞いたことがないんですよ。いつも懐手をして、ほとんど口を利かない子だったんです。
──樹木さんは東京・雑司が谷で育った。父は琵琶奏者。母は居酒屋を切り盛りして、一家の生活を支えていた──。
学校では、みんながいるところから、少し隙間を空けて立っている子でした。端っこから、周囲の人間をよく見ていました。親は何も言わなかった。放任主義ではなく、忙しくて子供にかまっていられなかっただけ。おかげで、気兼ねせずに過ごせました。
私は何だかモサーッとしていて、運動会でもいつもビリでした。だから6年生の水泳大会ではクロールや平泳ぎじゃなく、「歩き競争」というのに出たの。そんな種目に出る上級生は私だけ。あとは小さな低学年の子たちでした。
そんなわけでタッタタッタと歩いていたら、あっという間にゴールして1等賞になっちゃった。そしたら、賞品がね、他の種目と同じなのよ。周りの6年生が「なんだ、こいつ。ずるい」と不平を言ってるのが聞こえました。たぶんこの時、他人と比較しても意味がない、ということを覚えたんだと思う。それは今も続いています。
中学で私立の千代田女学園に進みました。この頃から普通に口を利くようになって、いつのまにかケンカっ早くて生意気な人間になっていたんですよ。黙っている間に、たっぷりためこんでいたのかもしれませんね。進路を決める時期に父親が「お前のような子は結婚してもすぐケンカして別れてしまうだろう」と言って「薬科大に行け」と勧めたんです。「薬屋の一軒なら俺が出してやる」と。親はやっぱりよく見てるわ(笑)。
その頃までは、女優になる気なんか全くなかったわね。まあ、数学の成績がひどかったから、薬科大を受けても落ちていたとは思うけど、私はある理由で大学を受験することが出来なくなったんです。
文学座へ、美男美女の中で合格
私の役者の原点は実は北海道の夕張なんです。父親の琵琶の仲間が夕張で鉄道員をしていてね、父が遊びに行くというので、私もくっついていったの。それが大学受験の直前でした。炭鉱のボタ山に雪が積もっていて、地元の子が板に乗って滑り降りていた。私もマネして滑ったら、足をポキッと折っちゃった。
受験はもちろん、卒業式も出られませんでした。同級生が希望に燃えて新しい道に踏み出そうとしている時に、私だけ、家でずっとチンとしていなければならなかった。親から小遣いはもらえるんだけど、何の目標もないというのはものすごい疎外感でした。
毎日通える場所はないかなと探していると、新聞に「新劇の3劇団が研究生募集」という記事が出ていました。芝居と言えば学芸会くらいしか経験はなかったけれど、まず文学座を受けに行きました。美男美女が大勢来ていて、これは落ちるな、と思っていたら、なぜか通ったんです。
──新劇3劇団とは、文学座と俳優座、民芸を指す。樹木さんは、文学座付属演劇研究所の1期生だ。同期には橋爪功さん、小川真由美さん、寺田農さんらがいた──。
私ね、器量に関してどんなこと言われても「あ、さいですか」ってな感じで全然平気なのよ。自分では普通だと思ってます。でもそんなに厚かましくないのでね、女優として通用する器量じゃないことは分かってました。ただ、新劇なら不細工でも大丈夫、という風評もあったの(笑)。
後で大先輩の長岡輝子さんから「あんたは耳がいいから合格したのよ。相手のセリフをよく聞いている」と言われました。その時は意味を理解していなかったけど、今ならよく分かります。口を利かなかった小学生時代、周りをよく見て、よく聞いていたのが生きたんだと思います。
でも、役者になりたくて入ったんじゃないから、あの頃は非常に生意気だった。「ずっと芝居を続けるつもりなんかないわよ」という態度を取っていました。杉村春子さんにも盾突いていたんですよ。
私ってケンカっ早いんだな
──樹木さんが文学座の研究生になったのが1961年。劇団創立25年目の年だった──。
三島由紀夫さんや矢代静一さんら錚々(そうそう)たる講師陣がいました。俳優には杉村春子さんや芥川比呂志さんたちがウワーッといてね。創立25年のパーティーで「これが芸能界なんだ」と感心しました。
当然私なんか目にも留めてもらえない。それなのに生意気だったんです。「芝居って面白くない」と思ってた。先輩の芝居は下手だし、演出家の言うことは納得いかない。よく演劇論になるんだけど、それが意外に他愛(たわい)ないのよ。「あんた、気に入らないわ」とか割と感情論になってね。
そんな中で「ああ、私って口が悪くて、ケンカっ早いんだな」と気づきました。研究生だった私が杉村さんと同じ芝居に出演したことがあってね、その時、杉村さんにまで意見してるんだからね。
ある場面で、舞台上に残った乳母車を誰が片付けるか、という話になりました。私は「杉村さんが押して戻ってくればいいんじゃないですか」と言っちゃったんです。「あなた!10年早いわよ」と叱られました。実際、10年も20年も早かったと思います。こんなだから、テレビで森繁久彌さんと共演した時も、名優の演技に最初から衝撃を受けたわけではありませんでした。
──森繁さん演じる明治生まれの祖父を中心にしたホームドラマ「七人の孫」。64年1~7月に放送され、続編も作られた。樹木さんは主人公一家のお手伝いさん役だった──。
私は途中から出演したんです。「お手伝いさんがいないと不便だから、誰か来てよ」っていう感じで呼ばれてね。請われて出演したわけでも何でもない。若い頃はCMでも何でもやっていましたから。
毎日、森繁さんと顔を合わせているとね、あの人の人間を見る目がすごい、というのが分かってきたんです。森繁さんに出会わなかったら今の私はなかったでしょうね。
(聞き手 編集委員・石飛徳樹)
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きき・きりん 1943年生まれ。「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」で茶の間の人気者に
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