新1万円札、大河主人公 今知っておきたい「渋沢栄一」
新1万円札の顔に決まった実業家・渋沢栄一。明治~大正期に多くの企業・事業を立ち上げ、「日本資本主義の父」といわれる。2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝(つ)け」の主人公にも選ばれた、その生涯はどんなものだったのか。
新札候補、実は2回目
1万円札のベースになったのは、渋沢が古希を迎えたころの写真とされる。平均寿命が50歳以下の時代に、髪も黒々とかくしゃくとして見える。
財務省は、渋沢が選ばれた理由を「資本主義の父と呼ばれ、日本初の銀行を作るなど近代経済黎明(れいめい)期に多大なる影響を与えた」と説明する。実は、1963年の千円札改変の際も、渋沢は伊藤博文と並び最終候補に残っていた。当時の技術ではひげがないと偽造されやすいなどの理由で伊藤になったという。
1840年、武蔵国血洗島村(現在の埼玉県深谷市)で、藍玉の製造・販売なども営む富農の子として生まれた。1863年に外国人居留地焼き打ちなどを計画するが、仲間と激論の末、断念。ほとぼりをさますために逃れた京で、のちの徳川幕府15代将軍、一橋慶喜に仕えた。
運命を変えたのが、パリ万博使節団の一員としての1867年の渡欧だ。スエズ運河を1企業が造っていることに感動し、91歳で亡くなるまでに500を超す会社、600を超す社会事業に関わった。私たちになじみの会社が多く含まれる。

ロックフェラー、カーネギーと違うのは
これほど多くの事業や会社の運営などに関わりながら、オーナーやトップにとどまることなく、新たな事業に挑み続けた。なぜか。渋沢史料館の井上潤館長は「当時の日本に必要な事業を起こし、定着させたいという思いが第一だった」と語る。
金融の要となる第一国立銀行を皮切りに、紙幣や新聞などに必要な紙を供給する製紙会社、さらに鉄道、ガス、建設、運輸など、社会のインフラに関わるあらゆる方面に手を伸ばした。
一方で、福祉、医療、教育などの社会事業にも力を注いだ。生活困窮者を助ける養育院(現・東京都健康長寿医療センター)の事業拡大に尽力。東京慈恵会、聖路加国際病院などの運営も支援した。商業教育・女子教育の重要性を説き、東京高等商業学校(現・一橋大)、日本女子大学校(現・日本女子大)などの創立にも。
興味深いのは、社会事業と企業経営がほぼ同時に進められていることだ。「米財閥の創業者であるロックフェラーやカーネギーが功成り名を遂げてから、財を社会に還元したのとは、大きく異なる」と井上館長。
「経済を基盤とした豊かな国づくりには人材が何より大切と考えていた。福祉や教育、社会格差の解消や労使協調に力を注いだのも、すべては人のため。実業と福祉を同時に進めるのは自然なことだった」

資本主義と向き合うには、残した言葉
資本主義が急に流入した明治の日本。「商売はもうかればいい」という風潮が生まれ、海外でも問題視された。日本初の経済白書である「興業意見」(1884年)にこうある。「詐欺を以(もっ)て商業の本旨なりと見做(な)さるゝに至れり」
これらを戒めるため、渋沢が残した数々の造語や言葉がある。例えば、武士の精神と商人の才能を併せ持つことを――。
士魂商才
「世界においても(略)影響のある『信用』の威力を宣伝していかなければならない」と訴えた。
よく引用される「道徳と経済の一致」も同一線上にある。中国の古典「論語」を愛読し、「孔子は、富を得るためには、いやしい仕事さえ軽蔑しなかった」などと独自の解釈を加えながら、商業道徳を説いた。「『論語』の教訓に従って商売し、経済活動をしていくことができる」
作家の守屋淳さんは言う。「資本主義は『金持ちになりたい』『利益を増やしたい』といった欲望をエンジンに進む面があるが、時に暴走し、バブル景気などの惨事を引き起こす。渋沢はそれに歯止めをかける手段として論語を使おうとした」
そんな渋沢の意図は今こそ、再評価されるべきだろう。
《創設・育英に関わった例》
第一国立銀行(現・みずほ銀行)、七十七銀行、東京株式取引所(現・東京証券取引所)、東京石川島造船所(現・IHI)、明治神宮、足尾銅山組合(現・古河機械金属)、東京海上保険(現・東京海上日動火災保険)、東京瓦斯(東京ガス)、日本鉄道(現・JR東日本)、王子製紙、秀英舎(現・大日本印刷)富岡製糸場(現・片倉工業)、日本郵船、帝国劇場(現・東宝)、理化学研究所、大日本麦酒(現・アサヒビール、サッポロビール)
《年表》
1840(天保11)年 武蔵国血洗島村(現在の埼玉県深谷市)に生まれる
1863(文久3)年 志士として活動し異人館焼き打ちを計画。説得されて断念
1864(元治元)年 一橋家に出仕
1867(慶応3)年 パリ万博の幕府使節の随員として渡欧。途中、スエズ運河が資本家の手で築かれたことに感動
1869(明治2)年 民部省に出仕。翌年、富岡製糸場事務主任。次いで大蔵省に出仕。大久保利通ら明治の元勲の知己を得る
1873年 第一国立銀行総監役に就任
1887年 日本煉瓦(れんが)製造、帝国ホテルなどの設立にかかわる
1927(昭和2)年 日米の「青い目の人形」交換事業にかかわる
1931年 4月、日本女子大学校長に就任。11月、91歳で死去
《訪ねる》
東京都北区の渋沢旧宅跡にあるのが渋沢史料館(改修工事中で来春まで見学不可)。故郷の埼玉県深谷市には、生地の「中の家」や渋沢栄一記念館などがあり、一帯は「論語の里」として整備されている。
《読む》
渋沢は講演時の語りおろしを中心に多くの著作を残した。中でも有名なのが「論語と算盤(そろばん)」。角川ソフィア文庫などで読める。守屋淳さんによる現代語訳は、ちくま新書で。「現代語訳 経営論語」(ダイヤモンド社)なども読みやすい。(編集委員・宮代栄一)