不完全でいい、世界のために 元陸上選手・為末大さん【再考2020】
東京大会に、一言
「意義は平和の再定義。戦争だけでなく疫病や温暖化、人種差別があれば完全な五輪はできない。人類の謙虚さが求められる大会になる」

東京大会は気候変動や分断など、社会課題解決のショーケースになると唱えてきた。日本のローカルな課題なら高齢化。硬直化した古い日本をアップデートする機会にもなると期待していた。成熟都市が五輪を招く意義として一つの事例になっていたはずだ。
でも、いずれもこれといったインパクトが残せないまま本番を迎えそうだなと思っていた。
2012年ロンドン大会では、大会組織委員会のセバスチャン・コー会長が「何のために五輪をやるのか」「スポーツは社会に対して何ができるのか」「アスリートファーストとは何か」という根本的な問いに繰り返し答え続けた。コー氏は1980年モスクワ、84年ロサンゼルスで連覇した元陸上選手。元アスリートの言葉は、世論の理解を得る上で大きかった。
東京大会はどうか。「何のために五輪をやるのか」と聞いても誰も答えてくれないから、聞かなくなってしまった。その結果、開催が危ぶまれたとき、「五輪は必要だ」という世論が高まらなかった。
2024年パリ大会は全体の調達額のうち25%をソーシャルビジネスや中小企業に分配すると宣言した。五輪を通じて環境や社会問題への取り組みを進めるという考え。東京大会もこうした明確な目的を示せていたらよかった。
今回のコロナ禍は、社会に分断がなく、人が自由に行き来できて、地球環境が一定の状態に保たれていないと五輪はできないということを突きつけた。大事なのに放置してきた課題が噴出するとこんなに大変なんだと金づちで殴られたような感じだと思う。
来夏の大会は「日本」というワードを捨て、世界のために五輪がどうあるべきかを追求した方がいい。コロナに限らず、世界から危機はなくならない。危機と折り合いをつけながら開催する五輪を、東京が示すのがいい。完全な五輪にこだわらなくていい。複数国で開催してもいいし、デジタル観戦もありえる。形を変えても五輪らしさは失われないと、示してほしい。
世界から見た日本のキャラクターは、30年前は「お金持ちのおじいちゃん」だったが、次は「寛容な長老」になるといい。コロナと直接関係なくても、この際、社会にある障害者や女性などに対する障壁を取り払ってしまえばいい。「最も変わりにくそうなあの国が変わるんだ」というインパクトが残せるはずだ。(聞き手・構成 伊木緑)
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ためすえ・だい 1978年生まれ。陸上男子400メートル障害で世界選手権2度の銅メダル。五輪は3大会出場。2012年に引退。スポーツとテクノロジーの事業を進める「Deportare Partners」代表。