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本能寺の変後、明智軍と信長軍が船戦 伝説生んだ戦いか

※本記事は2020年6月7日に朝日新聞デジタルで掲載されました。

天正10(1582)年6月2日、本能寺の変で織田信長が家臣の明智光秀に討たれた。その直後、明智軍と信長軍が琵琶湖で船戦(ふないくさ)をしたことを記す古文書が、石山寺(大津市)で見つかった。明智軍を率いたのは明智秀満(左馬助(さまのすけ))。愛馬に乗って琵琶湖を渡った「湖水渡り」の伝説で知られるが、関連資料は少なく貴重な発見という。

秀満は光秀の女婿やいとこの説があり、「明智五宿老」と呼ばれた重臣の一人。本能寺では先陣となり、光秀が羽柴(豊臣)秀吉に敗れた「天下分け目」の山崎の合戦後、光秀の居城・坂本城(大津市)で自害した。

古文書は、石山寺と関係が深かった武将の山岡景以(かげこれ)が先祖の由緒を記した「山岡景以舎系図(いえのけいず)」(縦27センチ、横119センチ)。1591年に記し、江戸時代に書き写された。瀬田城(大津市)の城主だった父・景隆(かげたか)の活躍を記録した箇所に、秀満は通称「弥平次」の名で登場する。

石山寺で見つかった古文書=2020年5月29日午後2時50分、大津市石山寺1丁目

古文書によると、本能寺の変の後、光秀は秀満に命じて安土城を奪おうとする。これに対して景隆は都から迫る明智軍に「勢田(瀬田)橋を焼落す」(読み下し文)。行く手を阻まれた秀満は「船に乗って湖上を済(わた)らんと欲する」(同)が、景隆は兵を率いて湖上で応戦。家来を討ち取られた秀満は先に進めなかった――という。

景隆が瀬田橋を焼いて進軍を阻止したことは信長の一代記「信長公記(しんちょうこうき)」に記されているが、明智軍を秀満が率いたことや船戦になった記録はなかった。

古文書を調べた滋賀県文化財保護課の井上優主幹は「戦の当事者の息子が、生きている時の出来事を書いたので信用性は高い」と話す。その上で、秀満の「湖水渡り」の伝説は、元となる史料がないことから「今回の船戦が伝説につながった可能性がある」とみる。

湖水渡りは、本能寺の変の11日後にあった山崎の合戦後の言い伝えだ。光秀が敗れた報を聞いた秀満が、安土城から坂本城に引き返したのは史実だが、どのように移動したかはわかっていない。

敵に阻まれ、琵琶湖南岸の打出浜(大津市)から愛馬にまたがったまま湖に入り、西岸に渡ったという伝説が講談などで語り継がれてきた。

古文書は石山寺の僧侶、鷲尾龍華さんらが5月18日、蔵を掃除中に発見した。包み紙を開くと、文中の「明智」の文字に気づいた。鷲尾さんは、光秀が主人公のNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」に触れ、「このタイミングで埋もれていた歴史が見つかるのは不思議な縁です」と話す。

古文書は10月31日~12月1日、寺本堂で公開予定。

石山寺で見つかった古文書。指先に「明智弥平次」、右下に「信長」と書かれている=2020年5月29日午後2時50分、大津市石山寺1丁目



戦国武将・明智光秀の重臣で「湖水渡り」の伝説で知られる明智秀満(左馬助(さまのすけ))の像を、大津市の琵琶湖沖に建てる計画が約60年前にあったことがわかった。滋賀県立琵琶湖文化館(打出浜)が5日、発表した。ただ実現せずに幻に終わった。

湖水渡りは1582年、山崎の合戦で光秀が敗れた後、安土城にいた秀満が坂本城に戻ろうとした際の言い伝え。琵琶湖南岸の打出浜から愛馬に乗ったまま湖に入り、西岸の柳ケ崎に着いたとする。現在、文化館の近くに湖水渡りの石碑が立つ。

5月下旬に館内で、計画の書類が見つかった。館近くの岸から50メートル沖に秀満が馬に乗った像(鉄筋コンクリート製)を設置するもので、県出身の彫刻家・森大造氏による完成予想図もあった。開館した翌1962年、当時の館長が「琵琶湖の名物に」と考えたという。工事費は500万円を想定した。

坂本城に戻った秀満は、城に火を付けて自害するが、その前に敵に明智家の宝物を差し出したと伝わる。担当者は「秀満のエピソードから文化財保護のシンボルにしたいという意図もあったようだ」と話す。計画書は館のホームページで公開されている。(筒井次郎)

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