【人生の贈りもの】演出家・テリー伊藤(2) 家にテレビ!近所から人波
東京の築地と銀座の境には現在、首都高速道路が走っています。でも私が子どものころは川が流れていました。その川を境に、世界が変わるのです。晴海通りには都電が走っていましたね。
「輝夫、きょうは銀座に行くよ」。おふくろに言われるのがうれしかった。デパートに買い物に行くときも映画を見に行くときもおふくろは和服を着ていました。いつも仕事着で汗だくになって働いているおふくろです。化粧をしている姿を見るのは、子ども心にも華やいだ気持ちになりました。
洋食店でチキンライスやスパゲティを食べるのも楽しかったな。ホットケーキやチョコレートパフェの味を覚えたのも銀座でした。
《1956(昭和31)年、「もはや戦後ではない」と国の経済白書がうたう。テレビ、洗濯機、冷蔵庫の「三種の神器」が広まっていった》
翌年だったかな。我が家の風景を劇的に変えてしまう出来事が起きました。月島の電器屋「月島テレビ」のおやじさんがオート三輪車の荷台に白黒テレビを載せてやってきたのです。築地の場外市場かいわいでテレビを買ったのは伊藤家が2番目でしたね。
茶の間にはビールやジュース、料理やお菓子がテーブルに並べられ、近所の人たちが見にやってきました。相撲中継の日は取組ごとに歓声や拍手が起き、盆や正月のようなにぎやかさでしたよ。
《1958(昭和33)年、新たなヒーローがテレビに登場した。白いマフラーにサングラス、白覆面の「月光仮面」である》
学校から帰ると、近所の空き地で「月光仮面ごっこ」をしました。駄菓子屋で売っていたおもちゃのピストルを使って遊ぶのです。塀の上から飛び降りて足をくじいたこともありました。
この年、もう1人のヒーローが現れました。東京六大学野球からプロ野球の巨人軍に入団した長嶋茂雄さんです。背番号3が躍動する姿に私も興奮しました。
早実へ、ワクワク路面電車通学
昭和30年代というのは、日本中が明るい未来を信じていた時代だったのではないでしょうか。
小学生のころ、初代南極観測船「宗谷」が東京・晴海埠頭(ふとう)を出航しました。晴海は私が住んでいた築地のすぐ近くです。学校では毎日、その話題で持ちきりでした。大人になったら南極観測隊に入り、ペンギンを築地に連れて帰りたいと思っていました。
《時代は、伊藤少年の心をさらにわくわくさせる》
土曜の午後でした。貸自転車を借りて友だちと一緒に港区の芝公園まで走ったんです。築地からは3キロほどでしょうか。自転車ならあっという間の距離ですよ。
目的はこの年(1958年)の12月に完成予定の東京タワーを見に行くことでした。築地市場を出て新橋を抜け、しばらく行くと緑が多くなります。オレンジ色と白色が交互に配色された鉄塔が見えました。「でっかいなあ。東京に世界一の塔ができるんだ」。首が痛くなるまで見上げていました。
《中学、高校は早稲田大学系属の早稲田実業に進んだ》
路面電車の窓から東京の街並みが見えます。あちこちにビルが建ち、道路ができています。いままで埃(ほこり)っぽくモノトーンだった風景が、見違えるほどきれいになり、オシャレになっていきました。通学の楽しみはもう一つあったんです。可愛い女子中高生に会うことでした。山の手エリアまで遠回りして通学したこともあります。男子校だったこともあり、とにかく女の子にもてたいという気持ちでいっぱいだったんです。
高校からはアイスホッケー部に入りました。自分たちで創ったんです。もちろん早実は野球部が全国的に有名ですけれど、野球部に入るほど運動神経は良くないし、根性もありません。大きなバッグとスティックを持って品川や後楽園のスケートセンターに行きました。「僕たちオリンピックを目指しているんです」。そんなウソをついたりして。
全共闘デモ、投石が左目直撃
高校3年生のときです。2歳年上の女性会社員とデートするまでにこぎつけました。初デートの場所は東京・六本木の「ニコラス」にすると前から決めていました。
《1954年開業のピザレストラン。寺山修司や三島由紀夫も通った老舗である》
ずっとドキドキしていましたね。緊張のあまり、しゃれた言葉すら出てきません。出てきた話題はプロ野球のことばかりです。「きのうのドラフト。巨人は明治(大学)の高田繁を1位指名したね」。野球好きの私はそんなことを一方的に話していたように思います。
彼女はきょとんとして聞いていました。そしてだんだん笑顔が消えていき、とうとう最後は無口になってしまいました。「またデートしてくれる?」。別れ際、恐る恐るそう言うと、返事は「ごめんなさい……」。惨敗でした。
《68年、大学は日本大学経済学部へ進む。日本大学全学共闘会議(日大全共闘)が結成され、やがて校舎をバリケードで封鎖した》
大学生になったら加山雄三さんのように「若大将」になって、好きな女の子と湘南の海でデートするのが夢でした。典型的なノンポリ学生だったんです。ですが、使途不明金の発覚に普段は温厚な友だちも「責任を追及せよ!」と怒りの拳をあげていました。授業はストップし、全共闘運動に参加する学生の数も日増しに増えていきました。
私も社会や政治の仕組みに問題意識を持つようになり、デモと集会に明け暮れる日々を送るようになったのです。
何千人もの学生集団の先頭で演説をしたときもありました。ですが、押し寄せてくる機動隊から逃げようと振り返った瞬間、投石が左目にぶつかってしまったのです。目の奥で火花が散ったような感じでした。すごい出血でした。
(聞き手 編集委員・小泉信一)
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