Presented by サッポロビール株式会社

【人生の贈りもの】演出家・テリー伊藤(3) 斜視の診断、退院後の舞台で涙

※本記事は2020年4月28日から2020年5月22日に朝日新聞デジタルで公開された連載を再編集しています。

1968年、投石による左目の眼底出血はかなり深刻でした。眼球が正常に戻ることはなく、ずっと斜めを向く状態になると診断されました。「斜視」です。

「おれの人生も終わりだ……」。自暴自棄になり、見舞いにきた家族や友人に当たり散らしました。でも、担当の看護師さんはずっとそばにいてくれたのです。

「斜視だって伊藤君はカッコイイんだから」。その言葉に何度励まされたことでしょうか。

《入院中の楽しみはラジオで聴く巨人―阪神戦だった。あるとき、長嶋がホームランを打った》

「ここで打ってくれたら俺も頑張る」と思っていたので本当にうれしかった。目をけがしたくらいで世の中をネガティブに考えるような男はカッコ悪いなあ、と思うようになりました。華やかなキャンパスライフを過ごそうじゃないかと自分を鼓舞したんです。

《同年11月に退院。さっそくフォークソングのコンサートを企画する。行動力や人を動かす組織力は抜群だった。このコンサートが「演出家テリー伊藤」の原動力となった》

神田やお茶の水かいわいのいろいろな大学の音楽部に声をかけたら、意外にもどこも快く協力してくれるんです。コンサートの題名は「日本大学キャンパス同好会 フォークの夕べ」としました。会場はお茶の水にあった日仏会館のホールです。自分たちでチケットを刷って、小道具もつくって。準備に1カ月くらいかかったかな。

翌69年の1月か2月に開催しました。コンサートは満席。大成功でした。そのとき司会も担当したのが私です。幕が下りた瞬間、涙があふれてきました。いままで自分はマイナーな存在でちゃらんぽらんだったけど、初めてスポットライトを浴びることができた。そうしたことへのうれしさ、というのでしょうか。

人に感動を与えることの楽しさ、素晴らしさ、おもしろさを知ったときでもありました。

すし修業は挫折、テレビ業界へ

楽しかった大学生活も、はや4年。同級生たちは就職活動に懸命でしたが、私は何も考えていませんでした。ドライブ、スキー、海、合コン、キャンプ……。遊びすぎて完全に乗り遅れたのです。

東京・築地にある実家の「玉子焼き屋」も私には帰る場所には思えませんでした。就職先が決まった仲間たちは目的意識がはっきりしていて、まぶしく見えました。

結局、ファッション業界を志したのですが、ある人気ブランド会社は2次面接で落ちてしまいました。

「君、経理できるよね」と聞かれたとき、「経理はどうも……」と正直に答えてしまったのが印象が悪かったのでしょう。

《「おまえ、すし職人になりなさい」。父親が知り合いの店を紹介してくれた》

山手線沿いの古いアパートで、見習いの職人さんとの共同生活が始まりました。でも長くは続きませんでした。みんな板前として一日も早く独立したい、という気合にあふれています。しかも年下ばかりです。

それに比べ、自分は魚や野菜、乾物が入った箱をきちんと並べたり、積んだりすることすらできませんでした。もともと、手先が不器用で何かを作ることは苦手です。半年ほどでその店をやめました。

《その後、別のすし店にも勤めたが、そこも長続きしなかった。付き合っていた彼女のアパートに転がり込んだ》

鬱(うつ)々とした日が続いていましたが、思い出したんです。大学1年のときに開いたコンサート「フォークの夕べ」のことを。「あのとき泣いたなあ」と振り返っていたら、「人を楽しませる仕事」をしたいと思うようになったのです。

知人の紹介で「IVS」という東京のテレビ番組制作会社に就職しました。1974(昭和49)年の秋でしたね。(聞き手 編集委員・小泉信一)



てりー・いとう 1949年、東京・築地生まれ。本名伊藤輝夫(てるお)。日大卒。「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」「ねるとん紅鯨団」など数々の人気テレビ番組を手がけた。著書に『お笑い北朝鮮』『お笑い大蔵省極秘情報』など多数。

<<テリー伊藤さんの連載・第四回はこちら>>

この記事をシェア

facebookにシェア
twitterにシェア
tLINEにシェア

SHARE

facebookにシェア
twitterにシェア
tLINEにシェア

オススメ記事
RECOMMENDED

↑TOPへ