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「赤いシリーズ」嵐の日々 俳優・三浦友和が半世紀を語る

※本記事は2021年4月24日に朝日新聞デジタルで掲載されました。

ジェットコースターのように劇的な演出で1970~80年代にヒット作を連発した大映ドラマ。最大の作品群が「赤いシリーズ」でした。24日付朝日新聞「be」のアンケート企画「今こそ!見たい 大映ドラマ」で、とりわけ読者の熱いコメントを集めたのも、三浦友和さんと山口百恵さんのゴールデンコンビが恋人役を演じた「赤い疑惑」「赤い衝撃」などの「赤いシリーズ」です。頼もしく誠実なキャラクターで人気を牽引(けんいん)した三浦友和さんに、撮影当時の思い出と、デビューから来年で半世紀となる役者人生を聞きました。

――ゴールデンコンビの始まりは

10代の夢はミュージシャンでした。忌野清志郎さんは高校の同級生で、彼の傍らで私もボンゴをたたいたりしていたんです。ある時、RCサクセションのマネジャーに「他のことをやった方がいいんじゃないの」と言われ、今の事務所を紹介してもらったのが俳優になったきっかけです。

デビューは1972年、宇津井健さん主演の大映アクションドラマ「シークレット部隊」。プロデューサーはのちに「赤いシリーズ」を手がける野添和子さんです。私の芸名「友和」の「和」は、野添さんから頂きました。

とはいえ演技の勉強をしたこともない私は、駆け出し時代、俳優の仕事に特に魅力を感じていなかった。ミュージシャンはとうに諦めていましたが、俳優もいつやめてもいい、むしろやめたいとすら思っていました。

転機は74年。山口百恵さんと共演したグリコのCMが西河克己監督の目に留まり、映画「伊豆の踊子(おどりこ)」に、百恵さん演じる踊子が恋する旧制一高生役で出演したことです。同年暮れの公開で、私は一般客に混じり、映画館の2階席で試写を見ました。大画面に自分が映る不思議さ、感動と共に、お客さんの反応がダイレクトに伝わってきて、ああ、この仕事はちゃんとやらなければ、と思った。私の原点になりました。映画は大ヒットし、翌年、同じコンビでテレビドラマの「赤い疑惑」が始まったのです。

――「赤い疑惑」の撮影現場の様子は

プロデューサーの野添さんは視聴者の反応、できあがりをみて本を作っていくやり方。監督も展開を知らず、俳優たちも先を読めぬまま演じていました。期間も、近年のドラマは1クール3カ月、10本前後が基本ですが、当時は2クール、きっちり26本。好評だとさらに延びることもあり、「赤い疑惑」は全29話です。放映に間に合わないから、スタッフはA・B2班に分かれて撮り進めましたが、俳優の体は一つ。殺人的スケジュールでした。

歌手としても分刻みのスケジュールだった百恵さんは、さっきまでドラマ撮影していたのに気付けば生放送のテレビ画面に歌う姿が、なんていうことも。彼女だけでなく、他のアイドルもみな、そんな時代でした。

私も他の仕事も抱えて撮影に追われ、家でテレビを見る時間はなく、今のような家庭用録画機もない時代。自分が出演した「赤いシリーズ」を通して見たことは、実は一度もありません。

「赤い疑惑」が76年4月に最終回を迎え、同年11月には「赤い衝撃」の放送が開始。正直、またやるのか、と思いました。さめているように聞こえるかもしれませんが、個々の作品に思い入れする余裕はなかったのが現実です。大映ドラマの独特さを表現するのは難しいが、あえて一言でいうなら「泥くささ」でしょうか。文字通り、嵐のような日々でした。

――人気の実感はありましたか

萩原健一さんや松田優作さんが注目されていた時代。「遅れてきた二枚目」と言われた私のようなタイプは少なく、「伊豆の踊子」の評判が良かったこともあって、20代は映画で多くの文芸作品に出演しました。コンサートをやると会場の規模がだんだん大きくなることに、人気を実感したものです。

(百恵さんの)「相手役」と言われ続けるのは、やはりあまりいい気分はしなかったですね。この時期、ドラマの他にコンビ映画も年2本撮っていましたが、文芸作品のリメイクではなく、「新しいものをやりましょう」と提案していました。コンビ初のオリジナル作品「ふりむけば愛」(78年)以降は、新作の現代物にも挑んでいます。コンビ以外の作品で冒険した映画もありますよ。

とはいえ俳優はお声がかかって成り立つ仕事。世間の評価は人気と一緒で、あがいてもしょうがないから、最終的には流れに任せるしかないんです。当時は文芸作品が嫌でしたが、今は全部好きですよ。ある時、大林宣彦監督が「あの時代の文芸作品は格調がある」とおっしゃった。そういうものかな、と見直すと、確かにそうだ、と感じたんです。どっしりしてますからね、昔の映画は。文芸の世界が、すごくマッチしたのでしょう。

――「赤いシリーズ」最終作は「赤い死線」。80年11月の放送5日後がお二人の結婚式でした

この世界、自分がやり続けたいと思うだけではやっていけないこともある。実際、仕事の話は結婚したころから激減しました。

まったくないわけではありません。それまでのイメージを破る無責任教師を演じた相米慎二監督の映画「台風クラブ」(85)など、今の自分につながる重要な作品もありました。それでも超多忙だった20代との落差が激しすぎたのです。

飾らずおごらず、感謝して――。ダンディーに年齢を重ねる三浦友和さん=内田光撮影

そんな時代が10年ほども続いたでしょうか。でもね、強がりでも何でもなく苦しさはまるで感じなかった。俳優はなるようにしかならない仕事だから、売れた時もそうでない時も、実はそう変わらない。子どもが2人生まれ、今で言う「イクメン」が楽しくてね。家を建てた費用の返済があったので働かなきゃまずいが、いざとなればその家や土地を売ればいいやと思っていたし。妻が(芸能界に)出たいと言えば止めることはできないでしょうが、そんな選択肢は一度もあがりませんでした。

40代になると、かつて「台風クラブ」を見て感動したという若い監督たちが「(教師役の)あの感じで」と、声をかけてくれるようになりました。その成果が次の作品につながり、再びポツポツ仕事が増えていった。そういう意味でも「台風クラブ」は重要な作品でしたが、実はあの教師役、相米監督が最初、別の俳優に声をかけて断られ、僕は二番手だったそうなんです。もしその人が受けていたら。本当にこの仕事は人との縁と運。つくづくそう感じます。

――来年で古希、俳優生活50年。展望は

青春ものはもうできないですからね。年齢相応のものが入ってくるようになりました。刑事など正義の味方が多いのは、まだ20代のイメージを引きずってるからかな。一番難しいのは、正義の味方。表も裏もない正義の人なんて実際にいるわけないし、うさんくさいじゃないですか。勧善懲悪ものは割りきって務めますが、演じて面白くはないですよ。

北野武監督から「アウトレイジ」でやくざ役を頂いた時はうれしかったですね。私が演じたのは加藤という極道役ですが、彼のずるさも弱さも、全部私の中に持っているから、演じられた。やくざものって、見るのも演じるのも、ちょっと面白いんですよ。そういうところにも惹(ひ)かれたのでしょうね。

自分からやりたい役はありません。それよりも、これからの私にどんな役のお話が頂けるか、それを待つ方が楽しみです。おじいさん役はまだ来ませんが、80歳で演じられたらいいじゃないですか。

かくも長く芸能界で仕事を続けられたのは奇跡的なことですし、それを支えてくれたのは、やっぱり、人との縁と運。同じ世界に入った長男(祐太朗さん、シンガー・ソングライター)、次男(貴大さん、俳優)にも、そんな出会いがあるといいな、と思っています。(西本ゆか)

みうら・ともかず 1952年山梨県生まれ。72年、ドラマ「シークレット部隊」で俳優デビュー。「赤いシリーズ」、「西部警察」など多くのドラマで活躍し、映画も「台風クラブ」「ALWAYS 三丁目の夕日」「沈まぬ太陽」「アウトレイジ」「RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ」「葛城事件」「羊と鋼の森」「風の電話」など多数。

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