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国産ビール、150年の夢 「発祥の地」、大阪で先祖の挑戦継ぐ

※本記事は2022年4月23日に朝日新聞デジタルで掲載されました。

国産ビール発祥の地。大阪・堂島のビル街に、こう刻まれた碑がある。有力な綿問屋だった実業家・渋谷(しぶたに)庄三郎が明治初期、商業用ビールを初めて製造・販売した場所だ。それから150年。一人の女性が、「渋谷ビール」の復活に乗り出した。自身の結婚式をきっかけに、温め続けてきた挑戦だ。

「まだ完成前で、炭酸も入っていませんが」。タンクから、金色の液体がコップに注がれた。麦汁を2週間程度発酵させ、寝かせている最中の「クラフトビール」。口に含むと、かんきつ系の香りが広がった。

ここは、大阪府藤井寺市内の住宅街。渋谷香名さん(49)が発泡酒の製造免許を取り、個人で立ち上げた大阪渋谷麦酒の醸造所だ。2年前、医療事務の仕事から転身した。「1日4缶がノルマ」と言うほどのビール好き。だが、それだけが理由ではなかった。

25年前、老舗寝具店の後継者である夫と結婚した。結婚式の時、夫の親類が「渋谷ビール」「渋谷庄三郎」を話題にしていた。

「初めて聞く名前。どんな人か知らなかった」

調べてみると、庄三郎は夫の祖先で、ビール業界の先駆者だと分かった。大阪府豊中市出身。市史などによると、綿問屋「桜井屋」の4代目で、経済の中心だった大阪で「最有力の綿問屋商人」。造船や海上運送などの幅広い事業を手がける傍ら、ビールの製造にも挑んだ。

当時、政府設立の通商会社が米国の専門家を招いて製造を目指したが、頓挫。挑戦を引き継いだのが庄三郎だった。1872(明治5)年、堂島にあった蔵を改装し、「渋谷ビール製造所」の看板を掲げた。

「すごい先祖。いつか、復活させたい」。香名さんは、口癖のように友人に語るようになった。結婚式から23年。娘4人の子育てが一段落したのを機に動き出した。造り方は残っていないため、図書館で資料を探した。原料の大麦は内地産▽ホップは輸入▽イーストは外国人関係のパン屋から手に入れた――といった程度の記載はあったが詳しくは分からず、現代の製法で造ることにした。

税法上、発泡酒に分類されるクラフトビール4種類を試作した。地元特産のミカンの皮も使い、鮮やかな金色と、かんきつ系の香りを生み出した。原料や製法は「渋谷ビール」と違うかもしれないが「可能な限り、『初代』に似せて造ってみたい」と夢を語る。

庄三郎の綿問屋は寝具店「さくらいや」に姿を変え、9代目の夫が守り続ける。「ビールが軌道に乗れば、子どもの代まで店を継げるかもしれない」と香名さん。醸造所のロゴマークには、旗を持った犬をあしらった。「渋谷ビール」の商標を元に、芸術大に通う次女の茉央さん(21)がデザインした。

(堀之内健史)

■クラフト人気、醸造所が倍増

先駆となった庄三郎の没後、1885~89年にキリン、アサヒ、サッポロの大手3社の前身となる会社が立ち上がり、ビールは世間に浸透していった。

近年はクラフトビールの人気が高まっている。日本地ビール協会によると、小規模な醸造所で手作りしたビールや発泡酒を指す。

1194年の酒税法改正で、事業化のハードルが低くなったとされる。ビールの最低製造量が年間2千キロリットルから60キロリットルに大幅に引き下げられた。同協会の調査によると、醸造所は2017年3月末現在で全国269カ所にあったが、21年末には530カ所とほぼ倍増した。

かんきつ系のほか、コリアンダーや山椒(さんしょう)などを使った多彩な商品が誕生。都市部を中心に、専門の飲食店が増えてきた。協会の山本祐輔理事長は「量より質を重視し、こだわりの1杯を探す若者たちを中心に人気が高まっている」と話す。

クラフトビールは、麦芽の比率などから発泡酒に分類される商品も多い。18年の酒税法改正で、発泡酒の税額は26年までに、ビールなどと段階的に統一される。山本理事長は「『安い酒』というイメージが払拭(ふっしょく)されれば」と期待する。

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