尾崎豊らがはばたいたライブハウスの社長が語る15年ぶりの復活劇
原宿・竹下通りのそばにあり、バブル時代のバンドブームをリードしたライブハウス「原宿RUIDO(ルイード)」が7月1日、15年ぶりに復活する。
各地を転々としながら尾崎豊、平井堅、ゴスペラーズらスターが輩出し、文化の発信地であり続けた「ルイード」は今年50周年。
新しい「ルイード」が生み出したいものは――。
かつての原宿ルイードで店長を務め、現在は運営会社社長の落合寿年さん(61)に思いを聞いた。
同じ場所に「原宿ルイード」が復活
新しい原宿ルイードは、以前と同じ場所で復活する。かつての建物の跡地にできた新たなビルの1階と地下を改装し、新たな小屋を作る。ステージは床上50センチほどで、客席と距離は相変わらず、近い。
落合さんは言う。
「座席100人、オールスタンディングで計300人。当面はコロナ対策で客席の間隔をとるなどを十分に注意して運営したい」
原宿ルイードが誕生したのは、1989年。原宿・竹下通り脇にある「不思議の国のアリス」をモチーフにしたメルヘンチックな建物の地下だった。
「原宿ルイードはポップカルチャーの中心地で、ホコ天、イカ天系のバンドも出ていました。レギュラーは、東京パフォーマンスドール時代の篠原涼子さんとか、平井堅さん、シャ乱Q、T.M.Revolutionの西川貴教さんら。ゴスペラーズは学生時代から出てくれていました」
平井堅さんは自身のデビュー10周年コンサートツアー直前の2005年5月、原宿ルイードでファンクラブ限定のシークレットライブを行った。
「私の出発点でもあり東京の故郷みたいな神聖な場所」
原宿ルイードが10周年を迎えた1999年、篠原涼子さんは記念チラシにこんな言葉を寄せている。各アーティストにとって特別な場所だった。
ビルの取り壊しなどの影響で原宿ルイードは2007年に閉店したが、ルイードにとって、閉店は決して珍しいことではない。各地を転々として続いてきた歴史がある。
新宿で始まったルイード 数々の伝説を生んだ
そもそもルイードが産声をあげたのは、今から50年前の1972年。JR新宿駅東口から徒歩1分ほどの雑居ビルの4階で、新宿ルイードは誕生した。
「天井が低く、ステージは床から30センチほど。客席との一体感、熱気は半端じゃなかった」
84年にアルバイトとして新宿ルイードに入った落合さんは振り返る。
記事の後半では、尾崎豊さんのデビューなどルイードの歴史をふりかえるとともに、ルイードの目指す未来について紹介します。
井上陽水、アリス、キャロル、荒井由実(ユーミン)、アン・ルイス、佐野元春、山下久美子、吉川晃司、中村あゆみ、チェッカーズ、CCB、レベッカ、バービーボーイズ、徳永英明、白井貴子……。
ルイードを運営するアズミックス本社(東京都渋谷区)の資料室にある大量のスクラップブックには、ライブハウスのフライヤー(チラシ)が72年から残されている。
中でも伝説的とされるのは、尾崎豊さんだ。84年3月に当時、18歳で高校を中退したばかりの尾崎さんがデビューライブを行った。スクラップには、そのときのライブのフライヤーの原本が残っている。尾崎さん自身も高校などにこのコピーを張ったという。
当日は熱狂的なファンが約600人も詰めかけ、中に入れず、周辺は人であふれかえった。
330平方メートルのライブ空間の収容人数は、椅子で250人、立ち見で150人であきらかに定員オーバーだった。
デニムのGジャン姿でアコースティックギターを手に声をからして「I LOVE YOU」「OH MY LITTLE GIRL」「十七歳の地図」「シェリー」など、後に名曲となる楽曲を歌う尾崎さんの初々しいデビューライブは映像にも残り、語りぐさになっている。
「尾崎豊さんはアマチュア時代にもルイードに出演しています。それがレコード会社の目にとまり、デビューが決まったと聞いていました。当時はレコード会社、芸能プロダクションなど業界関係者が客として多く聴きにきていました。ライブが終わったら、出演者に『どうだった?』とお客さんの反応を聞かれることもありました」
尾崎さんに限らない。ルイードのライブはアーティストの登竜門とされ、当時はステージに立つためのオーディションがあり、多くの曲のデモテープが持ち込まれたという。
実は、新宿ルイードは楽屋が狭く、出演者が使う専用のトイレがなかったという。
「いま、振り返ると、よく有名アーティストたちが出てくれたなと(笑)。いつも『ライブ前に済ませてください』と無理を言ってお願いしていました」
85年10月、渡辺美里さんが超満員の中でデビューライブを行った。だが、終了後に震度5の地震が東京を襲い、大混乱になるアクシデントがあった。ビルの耐震問題で、ルイードは87年に新宿から撤退を余儀なくされたという。
その後に生まれたのが原宿ルイードだ。また、2000年ごろからバンドブームでライブハウスが増え、落合さんは「多店舗展開していくしかない」と、渋谷、新宿、池袋と都内を皮切りにルイードを次々と展開していく。最盛期、全国に12店舗まで伸ばした。
「コロナのクソ野郎に負けてしまいました」
そんなルイードが危機を迎えたのは20年だ。新型コロナウイルスが日本列島を直撃し、同年2月に大阪のライブハウスでクラスター(感染者集団)が発生するなどの騒ぎがあり、全てのライブが自粛を余儀なくされたことだ。
「ライブハウスがクラスターの元凶のように報じられ、大混乱しました。出演するアーティストの間でも中止か、決行かと意見が分かれることもありました」
緊急事態宣言などが出される中、新宿と池袋は20年、21年4月には渋谷も閉店し、都内からルイードは消滅することになった。
「コロナのクソ野郎に負けてしまいました」
落合さんは当時、無念の思いを閉店を伝える声明文の中でつづっている。
「客席と距離が近いライブハウスは3密の象徴的な存在とされ、悔しい思いもした。でも、(今年)4月からようやくルイード50周年の企画が動き出しました」
その第1弾が原宿ルイード復活だ。6月上旬、工事中のライブハウス内を見ると、楽屋は広く、裏に専用のトイレも完備されていた。原宿は渋谷より家賃が高いが、落合さんはあえてかつてと同じ竹下通りからライブハウスを復活させることにこだわった。
「原宿の竹下通りはスカウトが集まる場所。芸能人になるため、地方から出てきて一日中、原宿を歩いている若者は今もいます。だからこそ新しい若者文化が生まれる」
落合さんは「ライブハウスに反骨、ロックというようなとがったこだわりはない」という。かつては、ビートたけし、役所広司ら俳優、地下アイドルグループもルイードのライブに出演している。
「出演者はアーティストだけじゃなく、今どきのアイドルやビジュアル系でもいい。ライブの基本は、エンターテインメントと考えています」
原宿ルイードの復活ステージには、早くもゴスペラーズ、中村あゆみ、竹原ピストルら大物の出演も予定されている。一方で、まだあまり知られていないアーティストの出演も予定されていて、将来のスターがここから生まれるかもしれない。
落合さんは誓う。
「今後はリアルライブの様子を同時進行で全世界にネット配信するなど原宿から新しい文化をどんどん仕掛けていきます」
(森下香枝)