太陽にほえろ!50年 名物Pが語る「スタッフ全員が泣いた試写」
1970年代、視聴率が40%を超えた刑事ドラマ「太陽にほえろ!」が今年7月、放映開始から50周年を迎えます。日本テレビのプロデューサーとして「俺たちの勲章」「あぶない刑事」など多くの刑事ドラマの企画・制作を手がけた岡田晋吉(ひろきち)さんに、「太陽」の制作当時を振り返ってもらいました。萩原健一演じる「マカロニ刑事」が人気絶頂で死んだ理由、松田優作が語る「太陽」刑事の条件、あのレジェンド声優が担当した脚本、そしてスタッフ全員が涙した伝説の試写など、ファンの心を揺さぶる打ち明け話が満載です!
――ショーケンこと萩原健一が演じたマカロニ刑事が死ぬ第52話「13日金曜日マカロニ死す」(73年7月13日放映)を改めて見て、脚本、演技、演出すべてにわたる水準の高さに圧倒されました。マカロニは命懸けで事件を解決した後、行きずりの強盗に刺されてあっけなく死んでしまう。なぜ、あえて「空しい死」を描こうとしたのでしょうか。
放映当時の世相は、70年安保闘争の影響が濃厚でした。かつては「やろうと思えば何だってできる」と希望を抱いていた若者たちの間で、一転して挫折感が広がっていた。萩原君はそんな時代の変化に敏感で「挫折の美学をやりたい」と主張していました。仮にマカロニが犯人を捕まえようとして殺されたら「自己犠牲の英雄」になってしまう。そうではなく「普通の若者として無駄死にしたい」というのが彼の希望でした。脚本家の小川英さんがその言葉にインスピレーションを得て、一気に台本を書き上げた。「太陽にほえろ!」全718話の中で唯一、僕たちプロデューサーや監督から何の注文もつかなかった脚本です。
――この回では、露口茂演じる「山さん」こと山村刑事の存在感も際だっていますね。若さに任せたマカロニの暴走を厳しくいさめつつ、実はマカロニに匹敵する熱いハートを秘めていることが伝わってきます。
「太陽」に命を懸けていた露口茂
露口さんは「太陽」に命を懸けていましたから。山村刑事の役柄にほれ込んでいた。
山さんが活躍する第2話がおもしろかったんですよ。就職試験へと急ぐ青年が、非番中のマカロニに泥棒の疑いをかけられ、警官に引き渡されてしまう。マカロニにとっては記憶にも残らない小さな出来事だったけれど、青年は就職できなかったことで人生の歯車が狂い、ついにはマカロニに復讐(ふくしゅう)するため爆弾事件を起こそうとする。山さんはベテラン刑事としての手練手管を駆使して、青年に爆弾を仕掛けた場所を自白させるんですが、この話を作って「これが『太陽』の基本だな」と思いました。
警察官というのは、一般の人から見ればすごい権力を持っているんだけど、マカロニにはその自覚が無い。それが山さんのような大人とのやりとりの中で自制心を学び、成長していく。僕は「太陽にほえろ!」で、刑事の若者を主人公にした青春ものをやりたかったんです。刑事の青春を描きつつ、視聴者の少年少女や若者が自分の人生について考えるきっかけになるドラマを作りたかった。かつては「少年倶楽部(くらぶ)」のような雑誌が、子どもらに楽しみながら人生を理解していく機会を提供していたのですが、「今ならば、これはテレビドラマの仕事だ」と考えました。
当時は安保闘争の影響で警察が嫌われていて、刑事ドラマがほとんど放映されていなかった。「これはチャンスだ!」と思いましたね。嫌われているのは反政府運動を取り締まる公安警察で、犯罪者を捕まえる刑事の物語ならば十分に受け入れられると考えた。「ブリット」や「ダーティーハリー」など、刑事を主人公にした米国映画も参考にしました。
記事の後半では、岡田さんが「優作最高の名演」と評する神回、あのレジェンド声優が「太陽」の脚本を書いていたという逸話、そしてスタッフ全員を涙させた「感動の試写」へと話は深まります。
――放映から半世紀を経ても、画面から伝わる萩原健一の魅力はまったく色あせていません。マカロニ刑事を巡る物語を1年限りで終わらせるのは、もったいなかったのでは?]
僕も萩原君にそう言って、番組を続けるよう口説いたのですが、彼もなかなか頑固でね。途中で降板したいと言い出して、いくら説得しても耳を傾けなかった。「俺は役者じゃないから、誰かに化けろと言ったって無理だ」というのが口癖でした。劇中でマカロニが失敗すると「俺はあんなヘマをしない」と本気で言うわけですよ。説得に限界を感じていた時に、「待てよ」とひらめいたのが松田優作のことです。
「芸術」の域に達していたジーパンの疾走
その少し前に、文学座の研究生だった彼の演技を見て「もしかすると、とてつもなく大きな役者になる」と直感していました。それで「ショーケンの次は優作で行こう」と決めた。無名の新人を抜擢(ばってき)することで、社内は大騒動になりましたけれど、優作が登場した初回はショーケンの最終回よりも視聴率が良かった。それで「しめた!」と思った。命がつながりましたよ。ショーケンのおかげで、「殉職」という「太陽」の伝統が生まれた。あのテーマ曲を作った大野克夫さんを推薦してくれたのも彼です。ショーケンは「太陽」に多くの遺産を残してくれました。
――岡田さんが、松田演じる「ジーパン」の最高傑作として挙げているのが、第72話「海を撃て!!ジーパン」ですね。
劇中、ジーパンが犯人のボートを追って突堤を走るシーンが忘れられない。長い手と足を生かした優作の「走り」は芸術の域に達していた。あの作品で、優作はスターになったのだと思います。若手刑事の役を、「テキサス」を演じた勝野洋に引き継ぐ際にも、優作は「走ること」の大切さをアドバイスしていました。走る姿にも色々あって、その姿だけで、何のために走っているのかを表現しなければならない、と。ショーケンも「本気になって走ることを見せたい」と言っていた。それで「太陽」では、すべての刑事が最後まで本気で走らされることになった。
――第129話「今日も街に陽(ひ)が昇る」は、なんと「ドラえもん」の声を演じた大山のぶ代が脚本を担当しています。
僕がテレビの仕事をはじめた頃は、米国製ドラマの吹き替え版制作が主な仕事でした。大山さんも露口さんも当時、声優として僕と一緒に仕事をしていた。みんな、同期生みたいなもんですよ。彼女は演じる以外にもさまざまな才能に恵まれていて「私にも『太陽』の脚本を書かせてよ」と言ってきたんです。
当時の「太陽」は、主婦層の視聴者が増えていたんですが、女性の脚本家がいなかった。女性目線の話が欲しいと思っていたので「渡りに船」でした。彼女が持ってきたのは、まさに女性でないと思いつかないような話だった。それを小川英さんが完成度の高い脚本に仕立ててくれた。この回以降、大山さんは重要な脚本家の一人になりました。「太陽」では新人の脚本家をたびたび抜擢し、育てています。どんな台本でもきれいに仕上げてくれる小川さんがいたからこそ、できたことです。
――番組のオープニングでは、若い刑事たちが全力疾走する中、石原裕次郎演じる藤堂係長、通称「ボス」が1人悠然と歩くのが印象的でした。
「真の主役」はやはりボス
石原さんは、「太陽」がテレビドラマの初出演作品でした。最初の頃は、自分の出演シーンの少なさにとまどって「日活で映画を主演していた時には、ほぼ全シーンに出ていた」「これでだいじょうぶなのか」と言っていた。だけど、あの人は頭がいい。「他の役者を立てつつ、最後には石原裕次郎が締める。そういう番組なんだ」ということをすぐに理解し、それに徹してくれた。番組のラストカットは必ず石原さんの顔にしたのですが、その表情が毎回違っていた。しかも、それが、事件が解決した後に七曲署の面々が抱いている気持ちを実によく代弁してくれていました。
――「太陽にほえろ!」の本当の主役はやはり、石原裕次郎だったのでしょうか。
そう思います。石原さんがいてくれたおかげでスタッフや俳優陣もまとまった。視聴率も、石原さんが病気で休むとちょっと下がって、復帰すると元に戻る。プロデューサーと脚本家が台本を練り上げる時、「これは石原さんが主役なんだ」と思って作っているので、どうしてもそうなるんです。
僕は高校時代、鎌倉に住んでいましたが、石原さんは隣町の逗子にいて、同学年でした。脚本家の小川さんも僕と同じ鎌倉学園高校出身でした。お互い、通じ合うものはあったと思います。湘南のおおらかで温かな雰囲気は、「太陽にほえろ!」という番組にも反映されていたのではないでしょうか。
――「太陽にほえろ!」は86年11月14日に終了しました。番組が終わった理由は、石原裕次郎の健康問題も大きかったのですか。
石原プロモーションの渡哲也さんから「石原の体調が厳しいので降板させて欲しい」という申し出があった時、僕らは「石原さんがいないんだったら『太陽』をやめる」と決断しました。当時の石原さんの病状には波があったので、体調の回復を待って最終回を撮影することにしたのです。
最終回では、撃たれて重傷を負い、拉致された部下を捜し出すため、ボスが犯人の妹から、兄の居場所を聞きだそうとします。撮影の当日、石原さんから「このシーンを俺にくれないか」という連絡がありました。
7分半、ワンカットの撮影で完全なアドリブでした。実生活で医者に止められていたたばこを「吸っちゃおうかなあ」という言葉と共にうまそうにふかしつつ、優しく犯人の妹に語りかける。「ずいぶん部下を亡くしましたよ。部下の命は俺の命。命って本当に尊いもんだよねぇ」「いままたひとり、若い刑事の命が消えかかっているんだよ」「そいつぁね……今年子どもが生まれて……もう1回そいつをその子どもに会わせてやりたいんだ」
僕らスタッフは知っていたんですよ。石原さんがそう長くは生きられないだろうって。やっぱり、完成試写を見た時にはみんな泣きましたね。それだけ、石原さんと「太陽」にほれ込んでいた。すごいチームワークだったと思います。
――石原は番組終了の約7カ月後、87年7月に肝臓がんで亡くなりました。
石原さんが自分の病状についてどこまで知っていたかは分からない。周囲は懸命に隠そうとしていましたから。だけど、あのシーンを見ると、自分の死をある程度覚悟していたのだと分かります。あれは、石原裕次郎の遺言だったと思います。
「太陽」の打ち上げの会の時、ハワイで療養していた石原さんから手紙が届いたんです。「『太陽にほえろ!』を私がはじめて手がけたのは、37歳の初夏でした。それから足かけ15年、いろいろなことがありました。この14年4カ月は私にとって第二の青春だったのかもしれません」との言葉を贈ってくれた。僕にとっても「太陽」は第二の青春でした。視聴者の中にも、「太陽にほえろ!」を見て人生が変わった、という方が結構いらっしゃるんですよ。今でもそういうお手紙をもらうと、うれしいですね。