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「知らんけど」の便利さと寂しさ 息を吐くように、傷つかないように

※本記事は2022年12月9日に朝日新聞デジタルで掲載されました。

話した後やメッセージの末尾に、「知らんけど」と添える人が関西以外でも増えている。ただの流行語ではなく、使いたくなる必然性が、そこにはあるのではないか。知らんけど。

  • 作家の岸田奈美さんは本場・関西での使われ方を、日本語学者の田中ゆかりさんは過去の流行語やブームとの関係を、哲学研究者の永井玲衣さんは現代社会での対話の難しさを考察します。

それは「元に戻す言葉」 作家・岸田奈美さん

生まれも育ちも関西の私にとって、「知らんけど」は特別な言葉ではありません。日常の会話の中で、息を吐くように自然と出てくる言葉です。今、「新しい言葉」のように注目され、新語・流行語大賞のトップテン入りしたことは、私にとって「レンコンが野菜大賞に」みたいな不思議な感覚があります。

自分のエッセーの最後に「知らんけど」と書いて、その一言に反応されたことがありました。私はエッセーで、家族とのエピソードや、その出来事を通じて感じたことをつづっています。書いていると、「書いている自分」が離れていくような感覚になることがあるんです。「何言ってんねんやろ」「寒いんちゃう」みたいな気持ちが、ふと起こる。

そういう「他者の目」になった時に、恥ずかしさを打ち消したり、他者との関係のゆらぎを元に戻そうとしたりする言葉として、最後に「知らんけど」と書いたのです。関西では当たり前すぎる言葉で、あえて文章に書く人が、あまりいなかったからでしょうか。「最高です」とか「めっちゃいいです」とか、普段使っていない人たちには新鮮に映ったようでした。

私の身近な人たちの間で、はやった時期もありました。その時、実は少し抵抗感があったんです。仕事関係の東京の人から「奈美ちゃん、最近かわいくなったな。知らんけど」と言われた時は、「その使い方は間違っている」と反論しました。「知らんけど」は相手を落とすために使うのではなく、自分へのツッコミであり、優しさの象徴なのだと力説しました。笑いを狙うような使い方が広まることが心配でした。

関西の日常会話に出てくる「知らんけど」は、「しゃべり過ぎちゃったな」とか「偉そうなこと言っちゃったな」とか感じた時に、会話の場をニュートラルな状態に戻してくれる言葉です。「私ばかりしゃべってごめん。あなたもしゃべってよ」という思いがある。

そういう瞬間は、関西以外の人も多くが体験しているけれど、それを表す言葉がなかったのでしょう。そこに「知らんけど」が発見され、広がっているように感じます。「いい言葉」や「いい話」をうさんくさく感じたり、恥ずかしく感じたりするようになったことも、影響しているのかもしれません。

いま私が注目してるのは、家族との旅行で行くことも多い、沖縄の言葉です。例えば「ぬー」の一言で、「どういうこと?」「畜生」「最悪」など、ものすごく広い意味を持つのだそうです。人の中に複雑な感情があるからこそ、言葉はシンプルになるものです。10年後には、沖縄の言葉が台頭しているかもしれません。(聞き手・田中聡子)




1991年生まれ。ベンチャー企業の創業に関わった後、作家に。著書に「もうあかんわ日記」など。

現代の「な~んちゃって」 日本大学教授・田中ゆかりさん

「知らんけど」は、東京の学生たちも使っています。「方言コスプレ」の一種であり、LINEでスタンプを使うようなふるまいと受け止めています。

かつて、方言は隠すべきもので、共通語(標準語)こそが使うべき言葉だと捉えられていました。高度成長期に、地方から東京に出てきた若者が「共通語がうまく話せない」と深い悩みを抱いたのは、そうした時代感覚に根ざしたものでした。しかし、テレビ放送などの影響で全国津々浦々で共通語化が進むと、共通語は陳腐な言葉となり、逆に誰でも使えるわけではない方言が特別な言葉として価値を持つようになりました。

そこへ到来したのがネット社会です。メールやメッセージで短いやりとりをする中で、話すようにメッセージを打ちたい、親密さを示したい、という欲求が出てきます。方言を持つ人は自分の方言でメッセージを打ちますが、首都圏人など方言を持たない人は、よその方言を使って親密さや特別な気分を「盛る」ようになりました。

2005年ごろ、方言ブームが起きました。リードしたのは女子高校生です。携帯電話という小さなデバイスを駆使し、短い、しかし親密なやり取りが可能となり、方言でキャラクターや雰囲気を演出するコスプレが身近になったのです。地元の人同士で「地元民コスプレ」をするなら、より濃厚な方言を使って地元感を出す。方言を持たない人は、社会の中で流通する仮想の方言をそれに付随するイメージとともに着けたり外したりする、という具合です。

現代は、「何を言うか」より「どう言うか」に迷う時代です。方言に由来する言葉も、「どう言うか」の選択肢の一つとなりました。正面切って正論を述べてしまった気恥ずかしさを打ち消そうと、最後に「わからないですけど」と共通語で言うと、ものすごく無責任に聞こえます。でも、関西弁由来の「知らんけど」は、無責任さを装うイメージをまとえるので便利なのかもしれません。

ただ、関西以外の人は「知らんけど」を「関西方言」としてではなく、LINEスタンプのような意識で使っているのではないでしょうか。

1970年代の終わりに「な~んちゃって」という言葉が流行しました。直前のシリアスな出来事や正論を無効化するという働きにおいて、「知らんけど」との共通点が見いだされます。かつては共通語。「知らんけど」は関西弁由来。この対比は、現代社会が方言コスプレを無意識のうちに受け入れていることを指し示しているように思えます。「な~んちゃって」は深夜ラジオ、「知らんけど」はSNSで広がる。そこにも時代の変化が反映されています。(聞き手・岡田玄)



1964年生まれ。日本大学教授。専門は日本語学。著書に「『方言コスプレ』の時代」「方言萌(も)え!?」など。

傷つき、間違いたくない私たち 哲学研究者・永井玲衣さん

「知らんけど」に限らず、逃げられる言葉が好きな人が多いことは常々感じていました。「~みたいな」や「個人的には」という表現もそうです。私たちはあまりに、人と集まって考えることに傷つきすぎているのではないかと感じています。

私たちの世代は、「この世に正解はないんだよ」という大人の言葉を新鮮に受け止めていたと思います。ですが、ある大学生が「正解はないけど、間違いはあるじゃん」と言っていました。会話の中で万能な「うまい返し」はないのに、糾弾はされる。そんなしんどい社会で、「間違いたくない」と思うのは当然です。

「正しくないことは悪いことか」「なぜ、みえを張ってしまうのか」などと問いを立て対話を深める「哲学対話」を10年ほど実践しています。最初に時間をかけるのは、ルールの説明です。ここでは変なことを言ってもいい、分からなくてもいい、ということを丁寧に伝えます。この「許しの時間」によって、ようやく武装解除して話すことができるようになります。

「子どもは自由だ」と思われがちですが、子どもたちほどおびえていて、本音を話しません。いくら大人が「自由に意見を」とか「正解はないよ」とか言っても、子どもほど「いい子」なことを言います。「正解がない」と言われながら、「結局そこに答えがあるじゃん」と分かっている。だから「知らんけど」と逃げたり、正解を言おうとしたり、「競争」にして論破しようとしたりしてしまうのでしょう。

対話から逃げてしまう理由には、おびえだけでなく、優しさと冷たさもあります。20代と対話をすると「その人のことは、その人が決めればいい。自己責任だから」と、自己責任を「寛容さ」として話す人がいます。そこには、他者と交わらない、相手を傷つけない優しさがあるけれど、冷たい。「人それぞれだよね」という言葉も同じで、対話終了のお知らせです。「知らんけど」は、自分の言葉すら「どうでもいい」と手放してしまっている。

相手を知ろうとし、相手の話を聞こうとする対話の場では、そういう言葉は出てきません。一人一人が思考して出てくる言葉には、取り換えがきかない価値があります。それがどんなに簡単な言葉であっても、紋切り型の正解のような言葉が逆に浮くような、価値が逆転する瞬間があります。そういう言葉に出会った時、私は心を動かされます。

でも、日常にそういう場は存在しない。相手に踏み込んじゃいけない、間違っちゃいけないと思わせる社会では、「知らんけど」を使わざるを得ません。それが、とてもさみしいです。(聞き手・田中聡子)



1991年生まれ。立教大学兼任講師。学校や企業などで哲学対話を行う。著書に「水中の哲学者たち」。

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