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「インスタグラムの女王に俺はなれない」 藤原新也が考える写真のリアリティ

写真家、作家、画家、そして旅人。ジャンルの枠に捉われずに表現し続けてきた藤原新也さんは、どのように仕事と向き合ってきたか。インスタグラム全盛期に何を見出し、映し出すのか。今の時代の表現について聞きました。

制作:谷口 陽+朝日新聞デジタルスタジオ
撮影:佐藤新也


※この記事は2020年3月10日に取材・撮影したものです。

写真に「こうあるべき」っていうのはないんだ

──藤原さんの新著『日々の一滴』のまえがきではインスタグラムについて書かれていました。誰もがスマホで写真を撮れる今の時代に、写真家はどうやって自分の作品を生み出すべきでしょうか。

本にもあるようにね、「べき」っていうのはいけない。

──そうでした……、本の中には「君たちは君たちの写真を撮れ。俺は俺の写真を撮る」ともありましたね。

うん、写真はそれぞれの世代の、社会に対するスタンスだと思う。インスタグラムにはその世代の若者との向き合い方があって、俺には俺の世代の向き合い方がある。だから俺が「こうあるべき」というと、別の世代のものを否定することになってしまう。

俺たちの写真は、目の前にいる人間を自分と切り離して、一体何者なのかを理解して伝えようとすること。お互い向き合えば言葉の有る無しに関わらず「以心伝心」が生まれる。すると、その人の心を引き出すことができる。自分は消えて、他者が立ち上がってくるんだ。

今の時代はそれと逆で、他者がいなくて自己に帰結している。インスタグラムやプリクラも自分の存在を確認するための手段だよね。俺たちが感情論でそういう関係性の写真を見ると、いけないよな、となる。ただ、その写真は今の時代でしか生まれない。一つの時代の風景として肯定しなければならない。インスタグラムの写真が自己完結に向かっているのは、愛情とか欠落したものがどこかにあって、自分を見て欲しいというのがあると思う。そういう現代性をインスタグラムは示しているんだろう。

Look at me──人間は心のお茶碗を満たしたい

「長野の帝王」って知ってる? 10年ほど前かな、ネットで話題になった女の子で、アニメソングっぽい音楽をかけて、自分の部屋で踊っている動画をユーチューブにアップしていたんだ。俺、その子に会いに行ったんだよ。

踊ってもらいながら生い立ちを聞いたら、小学3、4年生の頃から一人遊びが得意だったと話してくれた。両親は昼夜、家にいない家庭で、小学生の時に離婚していた。その子は一番多感な時期に親からの愛情を受けていなかった。

人の心はお茶碗みたいなもので、そこに愛情が溜まっていく。でも、人によってはそこに愛情が半分しか入っていなかったり、茶碗が割れて漏れたりしている。ただ、人間ってお茶碗をどっかで満たしたい。それは本能だと思う。

インスタもそういう部分があるんじゃないかな。だから俺からするとどれも「Look at me」なんだよな。

──藤原さんが撮るのもアイドルをはじめ、女性が多いですよね。

女性には時代の影響を受けて、それを伝え返すようなパワーがあるから面白いんだ。俺は小説『渋谷』でも当時10代の女の子たちを追っていた。

最近、聞いた話だけど、今は原宿のスイーツショップで買ったインスタ映えするソフトクリームを写真に撮って、そのまま捨てる、なんてことが起きている。俺たちはそういう写真は絶対に撮らない。でも、そういう写真が生まれている。背景には育った環境も関係しているんだろう。彼女たちも、もしかしたらその親も、社会の被害者と言えるかもしれない。

──社会の問題は子供だけでなく写真まで変えてしまうんですね。

写真ってそういうもんだよ。時代のリアリティを反映していないとあんまり意味がないと思う。逆にこういう時代に健康的な表現をしている写真はリアリティがない。インスタグラムではこの時代の写真を育てていけばいいんだ。

写真で変えたいのは、世の中よりも目の前の人間

──ご自身ではインスタグラムはやらないんですか。

一度やってみたいと思っている。
写真としてのクオリティを出そうと思えば簡単だけど、俺たちは今の10代20代の子のような写真を撮れない。何ができないかというと、彼女たちのようなアトモスフィア(環境)がつくれない。

彼女たちは自分と自分のアイテムの関係性を切り離さない。例えば友人、アクセサリー、風景。むしろ自分とそれらの関係性こそが彼女たちにとっての表現なんだろう。だとすると、インスタグラムの女王の部屋に行って100個のアイテムを見つけて俺がそれを撮っても、俺とは関係ないからね。インスタグラムにおける「いい写真」にはならないだろう。

だからインスタグラムをやるなら、その女の子と仲良くなって、自分もアイテムの一つになっていく。それでも彼女たちのような「私」しかない世界を、俺が撮れるかどうかはわからない。俺の目を通すことでその写真に俺との関係性が生まれるから難しいかもしれない。藤原新也を完全に消して写真を撮ることができない限り、俺は“インスタグラムの女王”になれないかもしれないね(笑)。

──写真が時代による変化を避けられない中で、変わらないことは何かありますか。

人を撮る時には必ずカメラが介在する。だけどさっき話したように、やっぱりお互いの意識の伝播なんだよ。

これはカメラマンに限ったことではない。例えばJR山手線に乗って目の前に女の子がいるとする。その子に意識があって自分が身体をこう動かしてみれば、相手もそれにつられて動く。人間同士の意識はまったく見ず知らずの世界でも意外と伝わるんだ。

だから向かい合って写真を撮ろうと決意した時には以心伝心の強度がすごいよ。意識を走らせる強度はカメラマンによって違うと思うし、相手によっても変わる。俺の場合は言葉は交わさないし、意識も発しない。それでも向かい合って交流すると相手も変わっていく。人間は意識が上がってくると、目に出てくるからね。俺が撮りたい表情になった時にパシャッとシャッターを押すわけよ。

──撮りたいのはどんな目でしょうか。

芯のある目。自分の中ではそういう心を求めている。

俺はシャッターを切る。彼女は「この感じ」なんだと覚える。それを何度かやるとその子の意識やライフスタイルが変わることもある。撮られているうちに意識が上がるんだね。

ひっきりなしに人に電話して月4万くらいケータイ代払っている子を一週間に何回か撮ったことがある。それからしばらくして彼女に電話で「ケータイ、今どれくらい使ってるの?」と聞くと「8千円」だという。

──彼女の意識、ライフスタイルが変わった。

そうそう。一人の人間と邂逅して、そのライフスタイルが変わることがあればすばらしいし、表現者としての充足感がある。それが仕事のやりがいと言えるかもしれない。

俺も言うことがあるけど、表現者は大風呂敷を広げて「世の中にモノ申す」というところがあるじゃない。でも、目の前の人間と徹底的に向き合わずしてそれを言うのは生意気だなって。世の中は身近なことの延長線上にある。だから大きく変えようとするんじゃなくて、小さく上手く変えられるかどうかが試されていると思うんだ。

藤原新也(ふじわら・しんや) 写真家、作家。1944年福岡県北九州市門司区生まれ。東京藝術大学油科中退。インドを振り出しに、アジア各地を放浪。1972年『印度放浪』で作家デビュー。1977年『逍遙游記』ほかで木村伊兵衛写真賞受賞。1981年『全東洋街道』で毎日芸術賞受賞。そのほか『メメント・モリ』『東京漂流』『渋谷』など著書多数。最新刊は『日々の一滴』。2011年より定員2000名限定の有料ウェブマガジン「CATWALK」を主宰。
『日々の一滴』 著者:藤原新也
発行:トゥーヴァージンズ
本体価格:1,800円(+税)
谷口 陽(たにぐち・よう) 編集者。1985年生まれ。ビジネス、ヘルスケア、まちづくり、旅、音楽などに興味関心。あとはとにかく面白い人やものが好きです。

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