楽譜の編集者、手仕事の美しさ 機械に「負けたくない」
全音楽譜出版社・出版部係長 渡邊裕子さん(38)
赤ペンとルーペを持って、音符が踊る五線譜に向き合う。ペン先は、音符や記号の一つひとつを追う。モノクロの楽譜が、次第に赤ペンの文字でいっぱいになっていく。
楽譜出版社の老舗、全音楽譜出版社(東京)で約14年間、ピアノの楽譜の企画・編集をしてきた。「こんな楽譜集があったらいいな」というアイデアを形にする編集者だ。クラシックから新曲まで、手がける曲は多岐にわたる。
「編集者に大切な目は二つあります」。一つは「ミスをみつける技術的な目」だ。楽譜を浄書する業者に原稿を渡す前に、原稿通りに自らピアノを弾いて、「8分音符が4分音符になっていて、拍数が合わない」「必要なシャープ記号がついていない」といった表記の誤りがないかを確かめる。音大でピアノを専攻した腕前を生かし、「習い始めて2年目ぐらいの人」など、編集する本が想定する弾き手のレベルに合っているかどうかも見極める。作曲家や編曲家に原稿の手直しを依頼することも。業者から送られてくるゲラも、ピアノを弾きながらチェックする。校正作業で凝視した音符の数は、14年間で1260万にのぼる。
もう一つは「演奏者としての目」だ。練習で繰り返し使う楽譜は、見やすくて美しいものがよい。1ページにうまく収まるように一段あたりの小節数を考えたり、演奏中にページをめくりやすいように、曲中の切れ目や休符の多い小節がページの末尾に来るように割り付けたり……。演奏者として違和感のあるところは徹底的につぶす。音符の大きさや形、棒の長さ、音符と音符の間隔などを0.1ミリ単位で調整していく。
今では、楽譜のゲラはコンピューターで作ったものが多いが、音楽の流れや盛り上がりを十分に表現できず、不自然な仕上がりになることがあるという。メロディーの盛り上がりや揺らぎを的確に表すように、音符をつなぐ罫(けい)の傾きにはとくにこだわる。コンピューターでつくったゲラでは機械的に傾きがつくが、音符の並びを確かめながら、最適な角度になるように定規で赤線を引いていく。
楽譜に使う書体も、曲や楽譜集の雰囲気に合わせて10種類以上の中から選ぶ。多いときは、8パターンほどのサンプルを作る。フランスの作曲家の楽譜集を作ったときは、音符の表記を古いフランスの楽譜の書体にあわせ、連符が美しく見えるようにした。プロの演奏家が「すごくきれいだ」と言ってくれた。
音大生だったころ、同じ曲を複数の出版社の楽譜で弾き比べると、なぜかやる気が出るものと、出ないものがあった。「いい楽譜からは、眺めているだけで音楽が立ちのぼってくるんです」
楽譜ソフトを使えば、印刷されたような楽譜を誰でも作れる時代になった。でも、こうした楽譜を、作曲者がイメージした音楽を体現したものにどれだけ仕上げていけるかが勝負だと思っている。「人間の手作業でなければ、たどり着けない景色がある。コンピューターに負けたくない」(堀内京子)
仕事支える道具は
ゲラに最も多く書き込むのが、「音符をつなぐ罫の傾きを直して」という意味の「傾」という字。画数が多いので書くのが大変になり、オリジナルのハンコまで作った。今では手放せない。
古い楽譜にヒント
西洋音楽の楽譜の活版印刷が始まったのは16世紀。ほんの20年ほど前まで、楽譜は音符や記号のハンコを一つ一つ押して作るものだった。会社の資料室や書店で、そんな古い楽譜を開くのが好きだ。職人の手仕事を眺めながら、「自分はこの楽譜が好きか、嫌いか、それはなぜか」を考える。次の楽譜作りに生かせる気づきを得られることも。
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わたなべ・ひろこ 東京都出身。6歳でピアノを始めた。桐朋学園大音楽学部演奏学科(ピアノ専攻)卒。出版社でのアルバイトを経て、2004年に全音楽譜出版社に入り、出版部で編集者一筋。