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【人生の贈りもの】役者・樹木希林(1) がんになり腰が低くなりました

※本記事は2018年5月8日から2018年5月25日に朝日新聞デジタルで公開された連載を再編集しています。

がんと付き合って、もう13年になります。これまでに30カ所を治療してきました。でも、口だけは達者だから、何だか元気そうに見えるらしくて、「死ぬ死ぬ詐欺」なんて言われてますけどね。

──2005年、乳がんで右乳房全摘出手術。13年の日本アカデミー賞授賞式で、全身がんであることを公表した──。

乳がんの時はね、胸にしこりがあったので、病院で先生に「がんですよね」と聞いたら「いや、違うでしょ」と答えるの。「きっと、がんですよ」と粘るとね、「じゃあ調べてみましょう」と。検査後に先生が「やっぱりがんでした。よく分かったねえ」と感心するのよ。私の場合、がんの告知まで、間の抜けた感じになっちゃうのよね。

その後、体のあちこちに転移したので、最近は年1回、鹿児島の病院へ放射線治療を受けに行ってました。1日たった10分の照射。でも1カ月かかるのよ。人生を見つめ直す良い機会になったけれど、飽きてくるでしょ。「先生、1週間で仕上げてもらえませんか。少々焦げてもいいですから」って言ったんだけど。

でも、闘病しているという気持ちは全然なかったわね。抗がん剤治療で苦しむ患者さんを何人も見ました。でも、私の治療法だと、生活の質が全く落ちなかった。だから、とても満足しています。

病気になったことでメリットもあるんですよ。賞を取っても、ねたまれない。少々口が滑っても、おとがめなし。ケンカをする体力がなくなって、随分腰が低くなったし。そう言うと「ウソだろ」って突っ込まれるけど、若い頃はこんなもんじゃなかった。本当に偉そうだったんですよ。

事務所もなく、マネジャーも置かない。「自分でギャラの交渉をするのが楽しみなの」=東京都中央区築地、村上健撮影

面倒くさい映画、嫌だったけど

がんになったのを契機に、テレビの仕事をやめ、映画だけをやらせてもらうことにしました。テレビはサイクルが早くて疲れるのよ。セリフをどんどん吐き出すだけで、まともに演技する暇がない。そういうのは散々やってきたから、オシマイにしよう、と。

──一風変わった役柄でテレビの人気者だった樹木さん。映画に重心を移すや、出演作が内外で評価され、自身も演技賞を取りまくる。昭和の怪優は平成の名優になった──。

たまたま恵まれただけよ。仕事は、出演依頼が来た順番とギャラで選んでいるんだから。私、ずっとテレビだったでしょ、どの監督に才能があるのかも知らなかった。そもそも映画には良い印象を持ってなかったの。8歳の時、親に連れられて最初に見たのが「どっこい生きてる」でね。

──今井正監督による1951年の社会派映画。労働者の困窮をシリアスに描く──。

映画館は混んでいて、床に新聞紙を敷いて見たけど、子供にはちっとも分からなかった。その後は「笛吹童子」みたいな分かりやすい時代劇ばかり見てました。とにかく面倒くさい映画が嫌いでした。

文学座に入った頃、杉村春子さんの付き人で、松竹大船撮影所にお供したことがあってね。小津安二郎監督の「秋刀魚の味」でした。杉村さんは中華そば屋の年増の娘役でした。ハンケチを四つに折って泣く場面を撮ってたんだけど、何度やっても小津さんは「もう1回」「はい、もう1回」と、OKを出さないの。

小津組の現場は常にしんと静まりかえってました。緊張感が高まるのが伝わってきたけど、私には、なぜNGなのかが全く理解出来なかった。そもそも、前の演技と次の演技のどこが違うのかさえ分からない。おなかもすいてくるし、「早く終わらないかな」というのが顔に出てたわね。

その後、小津さんは亡くなり、「秋刀魚の味」が最後の作品になりました。だから今考えると貴重な経験なんだけど、その時はただ「映画って嫌だなあ」と思ってました。

(聞き手 編集委員・石飛徳樹)



きき・きりん 1943年東京生まれ。テレビドラマ「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」で人気を博す。映画「歩いても歩いても」「悪人」「わが母の記」「あん」などで女優賞を多数受ける。今年「モリのいる場所」「万引き家族」「日日是好日」が公開される。

<<樹木希林さんの連載・第二回はこちら>>

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