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【人生の贈りもの】樹木希林(4) ジュリーに「ウルル」、私のまんま

※本記事は2018年5月8日から2018年5月25日に朝日新聞デジタルで公開された連載を再編集しています。

──1974年開始のドラマ「寺内貫太郎一家」で、31歳の樹木さんは貫太郎(小林亜星)の母、きんを演じる。実年齢より40歳上の役だった──。

バアさんなら動かなくて楽だろう、と自分で決めたんだけど、全然違ってたわね。毎回、激しいアクションがあった。母屋と離れの間を渡すハネ橋が上がっていることに気づかずに、下へ落っこちるという場面があるんだけど、久世光彦さんが「橋があるつもりで、しばらく空中を泳いでくれ」と言うんです。マンガによくあるでしょ、あれよ。

久世さんの要求はいつもすごいのよ。「上手に転ぼうとするな。痛いくらい本気で転べ」とよく言ってました。気持ちのうえでウソがないかということを常に考えながら演じてくれ、という意味なの。それで、孫役の西城秀樹君なんか骨折しちゃって、次の場面はギプスしてた(笑)。

私は髪を脱色し、声色を変えて、形はバアさんっぽくしました。でも、バアさんを演じたつもりはないの。気持ちは31歳の私のまんまなのよ。欲は深いし、ジュリーを見ると「ウルル」っとなる。気持ちにウソがない、っていうのはそういうことです。型で演じていないから面白いのね。

──きんの部屋には人気絶頂だったジュリーこと沢田研二さんのポスターが貼ってあって、その前で樹木さんが「ジュリイィィ!」と身もだえするのが毎回のお約束だった──。

あれ、台本にないんです。久世さんからは「ただやるんじゃなく、こみあげてくるようにやってくれ」と言われました。「分かりました」と。

──「ジュリイィィ!」と言う前に、じいっとポスターを見つめる。このタメこそが面白さの源泉だ──。

あのシーンだけ見ても、実は大して面白くないのよ。前後の物語と密接に結びついているから笑える。だから、毎回少しずつ違うのよ。うれしい時と悲しい時で変えているしね。「今日はまだ1回もやってないから、そろそろやっとくか」って感じの、おざなりな「ジュリイィィ!」もあったりしたわね。

そうでない方はそれなりに

向田邦子さんの脚本ですか? 「才能ないなあ」と思っていたわね(笑)。話がつまらないし、前後のつじつまが全然合ってないんだもの。

──樹木さんはテレビデビュー作「七人の孫」から「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」まで、演出の久世光彦(くぜてるひこ)さんと2人で、向田さんの脚本に伴走してきた──。

向田さんは前週の出来上がりを見てから次の回の脚本を書き始めるんです。だから撮影で私たちが加えた前週の要素を取り入れてくれたりして確かに面白い。でもね、私は「そんなことはいいから、きちんと早く書いてよ」と言ってました。普通に書いてくれたら、あとは私たちで何とかするから、と。ほんと、意地の悪い役者だったわねえ。

やっぱり久世さんは見事だったわね。シーンをつないでみて、つじつまの合わない部分を見つけてね、久世さんと私たちで補っていきました。あの時は本当に大変だったけれど、台本を俯瞰(ふかん)して見て、シーンを作っていくという貴重な訓練になりました。

向田さん、「貫太郎」の途中で、乳がんの手術をされたんです。そこから自分を見つめ直したんじゃないかしら。「貫太郎」みたいなポピュラーなドラマを書くのをやめ、「冬の運動会」や「阿修羅のごとく」のような文学的な作風に変わった。そして作家として名を成しましたよね。

──当時の樹木さんはピップエレキバンなどのCMでも茶の間の人気者になっていた──。

「美しい人はより美しく」っていうフジカラーのCMがありましたよね。このフレーズの続きは最初「美しくない方も美しく」だったんです。私、「それっておかしくないですか」って聞いたの。だってそんなわけないじゃない?

「それなりに写ります」にしてほしい、と。日本語としてきれいでしょ。「美しくない」という表現も美しくないと言って、「そうでない方はそれなりに」になりました。こんな発想が出来たのも「貫太郎一家」の時に鍛えられたおかげだと思います。

是枝裕和監督の作品「万引き家族」は第71回カンヌ国際映画祭で、最高賞パルムドールを獲得した。

芸名は「ちゃちゃちゃりん」?

是枝裕和監督の作品「万引き家族」は第71回カンヌ国際映画祭で、最高賞パルムドールを獲得した。

──樹木さんはデビューから15年余り、悠木千帆(ちほ)という芸名で活動していた──。

父親が考えてくれました。「生き馬の目を抜く芸能界では勇気が必要だから、勇気凜々(りんりん)の『悠木凜子』はどうだ」と。千帆は版画家の前川千帆(せんぱん)から。彼の描く女性がプウッとした顔で、私に似てたの。きれいな名前だけど、私は全く愛着が持てなかったわね。

テレビ朝日が1977年に社名変更した時にオークション番組を作ったんですけど、私にも「何か売ってほしい」と言ってきた。でも、何も売るものがない。「じゃあ名前でも売りますか」と答えました。プロデューサーが「どういうこと?」と聞くので「私にも分かりません。でも、とにかく売ります」と。

──「悠木千帆」は一般人が購入。以後、自らは「樹木希林」を名乗る──。

辞書を開いて適当に付けました。音が重なるのが好きでね、娘にも「也哉子(ややこ)」と付けたくらいです。別に「ちゃちゃちゃりん」でも良かったんだけど、漢字が当てられなかった。ドラマ「ムー」に出ている時でね、久世光彦(くぜてるひこ)さんに「誰だか分からないから、買い戻してくれない?」と頼まれました。「みっともないでしょう」と突っぱねました。

「じゃあ、母(ハハ)啓子という名前はどうだ」と久世さんから提案されてね。啓子は私の本名。「年を取ったら、濁点を付けて、(ババ)啓子にするんだ」と。啓子の方が面白かったかな。でも、もう変えないわよ。改名するのはくたびれるのよ。

改名もそうだけど、私はとにかく先に走り出しちゃうんです。でも、突拍子もないことを思いつくのが私たちの仕事じゃないかしら。深刻になることもあるけど、「遊びをせんとや生まれけむ」の心を忘れないようにしてる。芸能ごとに携わる人間ですから。

──樹木さんの場合、仕事はもちろんだが、結婚生活もまた突拍子もないものだった──。

(聞き手 編集委員・石飛徳樹)

きき・きりん 1943年生まれ。87年、NHK朝ドラ「はね駒」で芸術選奨文部大臣賞。

<<樹木希林さんの連載・第五回はこちら>>

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