【人生の贈りもの】演出家・テリー伊藤(4) 予算なし、小所帯の制作会社
24時間365日、テレビの世界に身を捧げるつもりでした。期待に胸を膨らませながら入社したテレビ番組制作会社「IVS」は、東京・麴町の日本テレビの近くにありました。都心の一等地です。ですが、オフィスはワンルームマンションの一室。机が一つあるだけでしたね。
社員は昔、テレビ局で働いていたおじさん2人。そしてすし職人から転身したという若者が1人いました。受付や庶務のスタッフはいませんでした。毎晩、ホットプレートで焼きそばを作ったりしてみんなで食べていました。
《それが企画会議だった。給料は驚くほど少なく休みもない。だが大好きなテレビの世界で仕事ができる。文句は言えなかった》
やがてアシスタントディレクター(AD)として、日本テレビの「びっくり日本新記録」というスポーツバラエティー番組に参加しました。「後ろ向きマラソン」「仲居さんお膳重ね競走」といった視聴者参加型番組です。
私は、もっとゲリラ的な番組を作りたいと思っていました。人間の潜在意識に眠っている下品な部分を映し出すような番組と言ったらいいでしょうか。
もちろん予算はありません。でも「もう何も失うものはない」と考えると、むちゃくちゃパワーがみなぎってきたんです。電車の網棚に捨てられた新聞や雑誌を読んで色々考えましたね。物事を否定的にとらえだすと、テレビの仕事はやっていられませんよ。
《そうして生まれた一例が「頑固オヤジ熱湯風呂我慢大会」だった。ばかばかしいが、いい年をしたオッサンが必死にこらえている。その姿は哀愁に満ちていた》
視聴率は良かったのですが、やはり地味でした。もっと明るくて華がある番組を作りたいと思うようになりました。
ハンディは武器、ゲリラ魂に火
遠回りの末、ようやくたどりついたテレビの世界でした。でも私は、人気タレントも予算も自由に使えない、弱小制作会社に勤めるテレビマンにすぎません。視聴率を稼がなければと気ばかりが焦っていたのでしょう。どこか空回りしていたようです。片目が不自由で斜視なことにもコンプレックスを感じていました。
《そんなある日、東京・渋谷の風俗店に左腕のない「マリンちゃん」という女性が働いていることを知る》
ガーンと頭をたたかれたような衝撃を受けました。なぜか急に、話だけでもしたくなり、バイクを飛ばして渋谷に向かいました。聞くと、マリンちゃんは暴走族だった彼氏の車に「箱乗り」していたところ、速度オーバーで壁か何かに衝突。挟まれた左腕を失ってしまったそうです。
「でも仕方ないじゃない。負けちゃいけない。そう思って店に出ている。この仕事だって人の世のために役立っているんだから」
前を見据え、きっぱりそう言いました。自分のハンディキャップやコンプレックスなんか笑い飛ばせ。したたかに生き抜いてやれ。そんなパワーと根性を教えられた思いでした。
一方、大手メディアは新聞を含め、マリンちゃんのように必死に生きている人の現実を直視しようとしません。ややもすると、いまをときめくスターや話題の人ばかりにスポットライトをあてます。彼らはいわゆる「勝ち組」。エリートなんです。でもテレビを見ている人は「勝ち組」ばかりではありません。むしろ逆の場合が多いのではないでしょうか。
《このころからテリー自身も「片目が不自由なら逆にそれを武器にすればいいじゃないか」と思うようになった》
マリンちゃんに出会ってゲリラ魂に火がつきました。不眠不休でどんな番組ができるか考える毎日が始まりました。
そうだ!俺も名前変えよう
テレビやラジオ番組の企画・制作をし、放送作家を養成する会社「ロコモーション」を立ち上げたのは1985年でした。英語の社名には「移動能力」の意味があります。興味がわいたら、すぐに動こうという思いを込めたのです。
やがてコメンテーターとしてテレビやラジオに出演したり、取材を受けたりする機会が増えていきました。40代になって、本名の「伊藤輝夫」から芸名を「テリー伊藤」に変えました。
実は、人気プロレスラーの武藤敬司さんが「グレート・ムタ」とリングネームを変えたことに刺激を受けたのです。「毒霧」を口から吹きかけ、悪役として大暴れする姿に「そうだ! 俺も名前を変えよう」と思ったのです。輝夫なのでテリー。分かりやすいでしょ。
《「たこ八郎に東大生の血を輸血するとIQはあがるか」など、そこまでやるの?みたいな番組を次々作っていたテリー。組み合わせの妙が刺激的だった》
ビートたけしさんの冠番組「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」(85~96年、日本テレビ系)では、ディスコダンスと甲子園を結びつけた「ダンス甲子園」が人気を呼びましたね。
浅草橋というローカルな地名を使いつつ、料理とファッションとお笑いを合体させたのが「浅草橋ヤング洋品店」(92~96年、テレビ東京系)です。日本共産党副委員長の上田耕一郎さんが出演したときは話題となりました。
土曜の深夜枠ながらも高視聴率をキープした「ねるとん紅鯨団」(87~94年、フジテレビ系)では司会にとんねるずを起用しました。彼らなら若者の感性にぴったりくると思ったのです。
《どれも「伝説」となったバラエティー番組だが、リアリズムの精神が流れていた》
でもトーク番組はあまり好きになれないなあ。言葉だけで場面をつないでいるとウソっぽく思えるんです。(聞き手 編集委員・小泉信一)
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てりー・いとう 1949年、東京・築地生まれ。本名伊藤輝夫(てるお)。日大卒。「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」「ねるとん紅鯨団」など数々の人気テレビ番組を手がけた。著書に『お笑い北朝鮮』『お笑い大蔵省極秘情報』など多数。
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