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プロレスラー・蝶野正洋さん思い出の「海外3000kmドライブ」 プロレス×車の共通点と「自己管理」の重要性

毎年大晦日に放送される『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』で、月亭方正さんに浴びせる“強烈ビンタ”で人気のプロレスラー・蝶野正洋さん。一見すると怖いイメージですが、ドライブ好きで家庭的な一面も持ち合わせています。

フェアレディZ、メルセデス・ベンツ、アウディといった数々の名車を乗りこなし、修行として遠征したアメリカやヨーロッパ巡業時代はドライブにまつわるエピソードに事欠きません。そんな蝶野さんが考える、プロレスと車の共通点とは──。

日本のプロレスがエンタメ化しなかった理由、今年引退した獣神サンダーライガー選手のエピソードから考える自己管理の重要性、また現在、精力的に行っている啓発活動についてなど、たっぷり語っていただきました。

制作:すずきあきら+朝日新聞デジタルスタジオ
撮影:栃久保誠

プロモーター会社が潰れて急遽決まった3000kmドライブ

──ドライブが好きになったことには、何かきっかけがあるのでしょうか?

新日本プロレスに入って20年目ぐらいに「そろそろ(キャリア的にスケジュールの見通しがついて)巡業が終わりだな」っていうのがわかってきて。休みの前にドライブで気分転換できるなと思って、クルマで移動することが多くなったんですよ。それで、近場の名古屋とか長野、新潟、仙台ぐらいならクルマで行くようになりました。

たとえば名古屋とかで試合をやって1泊します、と。1日休んで大坂に移動ってときは、クルマで1回家に帰っちゃう。オレってけっこう自宅に戻りたいほうだったので。翌日、大阪へ移動するときは、自分で新幹線に乗って行くって感じでしたね。

──休みは自宅に戻るあたりが意外と家庭的ですよね。ドライブが好きになったのは日本での巡業がきっかけですか?

いや、原点はアメリカですね。アメリカは広大だから、クルマがないと会場に行けないんです。なかでも一番長くドライブしたのが、1988年に行ったカンザスシティ(ミズーリ州西部の都市)で起きたトラブルのとき。巡業中にプロモーターの会社が潰れちゃったんですよ。オレらも会場に行ってはじめて聞かされたんです。「クローズだ」って言うから、試合がクローズなのかと思ったら、「会社がクローズだ」と(笑)。

大慌てで仲間のレスラーに相談したら、プリンス・エドワード島ならツテがあると。「今から話をつけられるところがそこぐらいしかない」って言われて。プリンス・エドワード島って、カナダの東海岸の上に位置していて、「赤毛のアン」の舞台になったところ。カンザスシティからは3000km離れた、とんでもなく遠い場所なんです。

ただ、こっちも背に腹は代えられない。「オレも連れてってくれ!」って頼んで一緒に向かうことになりました。1日で1500km離れたボストンくらいまで行って軽く仮眠して、また1500kmくらい走って。トータル2日間かけて移動しました。しかも到着してからすぐトライアウトして、っていう過酷なスケジュール(笑)。大変だったけど、今振り返ると面白いドライブでしたね。

「CRASH」で今、一番反応するのは月亭方正

──いかにもアメリカっぽいエピソードですね(笑)。蝶野さんと言えば洋楽『MARTIAL ARTS』をアレンジした入場曲『CRASH』のイメージが強いんですが、入場曲を聴くと試合のスイッチが入る、みたいなことはあるんですか?

『CRASH』は声が入ってないというのもあって、最初は違和感があったんですよ。100%自分の中で消化するのに、だいぶ時間がかかりましたね。周りが「いいね」って言ってくれて、しばらくしてから「あ、これだな」って認識したというか。

オレなんかは、入場曲が鳴る前の段階から少しずつ気持ちを昂ぶらせるんですよ。『CRASH』は試合がスタートする合図みたいなものだから、入場曲で切り替えるって感じはないですね。たぶん、『CRASH』が鳴って今一番反応するのは月亭方正くんだと思う(笑)。

──毎年放送される『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで! 大晦日年越しスペシャル!』では、蝶野さんのビンタが恒例になっていますからね(笑)。お笑いの世界も演者や観客、演出が重要で、プロレスと共通する部分もありそうです。

日本のプロレスにも、エンタメ化しようとした時代があるんですよ。お笑いタレントの山田邦子さんを交えた「スポーツバラエティー」として放送していた時期。オレらが海外に行っていた1987年頃の話です。ファンからの批判を受けてすぐに方向転換しちゃいましたけどね。

そんな歴史もあるから、自分がnWoJAPAN(ハルク・ホーガン率いるアメリカのプロレスラーユニット「nWo」の日本支部)を盛り上げるにあたって、壁を感じたりもしました。1997年の話ですけど、プロレス番組のスタッフにアメリカで学んだカメラワークの演出方法を伝えても、カメラマンとぶつかるわけです。スポーツって基本は中継で、カメラを固定するのが王道らしくて、「カメラワークを変えたりするのは演出でありバラエティーだ」って拒否された。

それでも、入場のときとか「オレのトコだけでいいからやってくれ」って説得して、徐々に変わっていった経緯です。他にも「プロモーションのビデオをもう少し入れてくれ」とか、ハマーに乗って入場するとかって演出も、自分から提案したもの。とはいえ、日本でプロレスはスポーツだった。アメリカのWWEみたいにエンタメ化はできなかったですね。

ライガーは先駆者。レスラーも車も整備すれば長く走れる

──今年1月、獣神サンダーライガー選手が現役を引退されました。プロレスラーとしては小柄ですが、神業を連発するパフォーマンスは唯一無二。蝶野さんは、ライガー選手をどんなふうに見ていましたか?

ライガー選手は一番努力していた選手ですよね。本当に先駆者であり見本です。「自分の体を作り上げて、しっかり管理する」というのを早い段階でやっていた。車で言えば、フルチューンナップして、毎日しっかりメンテナンスしている感じ。日々のチェックや鍛練がオレとは真逆ですね。こっちはナチュラル派なので、最低限のオイル交換ぐらいしかしてなかった。

ただ、ライガー選手はすごい肉体してるのに、ぜんぶコスチューム着て覆われちゃってるからもったいないですよね。あの中身はボディビルダーとしてもすばらしい。最新の食事とかサプリとか、プロレス界で最初に取り入れた人なんですよ。全身隠しちゃってるから見えないんだけど(笑)。

──たしかに車もプロレスラーも、管理によって本来の寿命を延ばすことができそうですね。

アメ車は10年も20年も持つようなつくりではないし、都度オイル交換なりなんなりをしなきゃいけない。ドイツの車は、整備が当たり前っていう設計のもとで交換する。こっちのほうがつくりはよくて、10年は最低でも保つ、みたいな。

オレって、こう見えてドイツ車のように「10年は走れるクルマ」みたいなケアはしていて。ただ、オレはドイツ車でもアメ車でもない、燃費の良い日本車。クルマでいう定期的な車検、体のケアは他の選手以上にやっていました。

若手の早い時期からケガをしていたので、治療を受けながらだけど、25年はできた。本来なら10年ぐらいで潰れてもおかしくないようなケガだったんですけどね。ボディの点検と修理は命に関わる大切なポイントなので、ケガの治療はシリーズ前、シリーズ中、シリーズ後と、しっかり診てもらっていて。身をもって「しっかり整備すれば長く走れる」っていうのを実感しましたよね。

正しい情報は取りに行く時代。その窓口になる活動を続けたい

──第一線で活躍されてきた蝶野さんだけに説得力が違います。最後に今後、注力したい活動などがあれば。

デビュー35周年ということもあって、個人的には芸能だったりアパレルだったり、今までやってきたもののさらに上を目指しつつ、新しいものにもチャレンジしたい。

そして、もう1つ大きな柱にしていきたいのが啓発活動。自分が防災に協力していて感じるのは、「防災は各地域によって違う」「減災は各個人によって違う」という言葉の意味が、どれくらいの人に伝わっているのかってことです。

防災で言えば、たとえば震度7の地震が起きたとして、被害に遭う場所が海辺なのか街なのか山間部なのか。海辺でも、港町みたいに人が多くいるところかどうかによって、災害の防ぎ方は違います。

減災の概念においてはさらに、被災者の個人差を考慮しなければならない。たとえば高齢の人で日々飲んでいる薬があったら、ただ避難所に行くだけではダメ。ちゃんと薬を持って避難場所に行かないと、健康が保てないんです。こういうことが、あまり伝わっていない。そこに自分の貢献できるポイントがあるのでは、と思います。

今までは情報って待つものだったけれど、これからは自分から正しい情報を取りに行く必要がある。今、世界中で猛威を振るうコロナウィルスもそうです。とくに世代によってはこれまでどおりの発信だとなかなか伝わらない部分もあるので、バラエティーなどで知ってもらっていることを上手に活用して、自分が情報の窓口になろうと考えています。若者向けにはYouTubeで配信するなどして、つながりができたらと思いますね。

蝶野正洋(ちょうの・まさひろ) 1963年9月17日、父親の赴任先だった米国ワシントン州シアトルで生誕。2歳半の時に帰国。1984年に新日本プロレスに入門。同年、武藤敬司戦でデビューした。1987年から2年半におよぶ海外遠征に出発。遠征中に武藤敬司、橋本真也と闘魂三銃士を結成。1991年に第1回G1クライマックスで優勝し、以降は前人未到のV5を達成。1992年に第75代NWAヘビー級王座を奪取。1996年にnWo JAPANを設立して一大ムーブメントを巻き起こす。その後、TEAM2000を結成するなどプロレス界を盛り上げた。2010年から「AED救急救命」「地域防災」の啓発活動、東日本大震災の復興支援活動を開始。フリー転身後の2014年にAEDの普及・啓発を目的とした「一般社団法人ニューワールドアワーズスポーツ救命協会」を設立した。近著に「自叙伝 蝶野正洋―I am CHONO」(竹書房)がある。
すずきあきら フリーランスの編集/ライター。元バンドマン、放送作家くずれ。エンタメ全般が好き。特にお笑い芸人をリスペクトしている。個人サイト「不滅のライティング・ブルース」更新中。http://s-akira.jp/

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